2016-10-26

会社を退職しシリア難民支援の道へ 田村雅文さん

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田村雅文(1)ヨルダンで。シリアの紛争で足を失った5歳の難民の少年とともに

2011年から始まったシリアの紛争は、未だ解決の兆しが見えない。これまでに命を失った人は15万人以上にのぼり、300万人以上が難民として周辺国へ逃れた。国内で家を失った人は、紛争前の人口の半分の1千万人に迫っている。さらに騒乱状態はいっそう深刻化しており、周辺国の避難民の受け入れも、限界を迎えている状況だ。

 田村雅文さん(35歳)は、シリア難民を支援する団体「サダーカ」の代表を務める。サダーカはシリアの現状を世界中に伝え、専門家やNGOなどと連携して紛争終結を目指すのが主な活動だ。

田村さんがサダーカを立ち上げたのは、2012年3月。同年7月からは、JICAシリア事務所の企画調査員として家族をつれてヨルダンに赴任した。JICAでの業務を行うとともに、サダーカのボランティアとともに現地でシリア人難民の家庭訪問を行っている。

田村さんがシリアに関わるようになったきっかけは、2005年7月から2年間、JICAの青年協力隊員としてシリアに赴任したことだった。帰国後2社の民間企業で働いた後、2012年に退職してサダーカを立ち上げた。
会社員からシリア難民支援の道へ。そこへ至る思いや経緯、現在の行っている活動や将来の希望などについて語っていただいた。

イラクツアーから国際協力の道へ

初めて中東に行ったのは、大学時代(三重大学)です。イラク戦争前の2000年、大学1年生の春休みに「日本イラク医学生会議」というグループのメンバー8人でイラクへ行きました。
当時イラクは、1990年のクウェート侵攻に対して国連の経済制裁が課され、輸出入が厳しく制約され、人の往来も制限されたりと孤立状態にありました。そんな中で人々の生活はどうなっているのかを自分たちの目で見ることが目的です。

私は医学生ではなかったのですが、医学生であるサークルの先輩が声をかけてくれました。参加したのは好奇心からです。当時は特に中東に関心があるわけではありませんでした。先輩に誘われるがままに、という感じです。私が参加していたサークルは「国際協力ネット」という医学部の先輩が中心になって作ったものでした。授業前に英語の勉強を行ったり、年に1回海外へのスタディツアーを企画したりしていました。イラクのツアーは他大学の学生と企画しました。

田村雅文(2)イラクの小学校訪問


中学生の頃から、自分の目で海外を見てみたいという気持ちは持っていました。中学の時、NHKスペシャルでルワンダ虐殺(注)の番組を見て以来だと思います。隣人同士が殺し合うという、人として普通では考えられないことに、なぜこんなことが起きるのだろうと衝撃を受けました。世界には自分の想像を超える出来事が起きている。それを自分の目で見てみたい、という気持ちが芽生えました。中学・高校で海外に行くのは難しかったので、大学に入ったらぜひ行きたいとアンテナを張っていました。イラクへの誘いがあったのは、そんな時です。

ヨルダンを経由して陸路で14時間くらいかけてイラクへ行きました。
現地では、イラクの学生同盟の人たちが案内してくれました。こちら側は医学部の学生が多かったので、病院を見学したり、バグダッド大学の学生と交流をしたり、孤児院を訪問したりしました。

経済制裁の影響で病院等の状況は厳しいものでしたが、イラクの首都バグダッドは想像していた以上に発展していて驚きました。道もきれいに舗装されているし、表面的にかもしれませんが、物も豊富に見えました。もちろん見えない場所では、豊かでない部分はたくさんあったと思いますが、人々は疲弊しているというよりは誰もがフレンドリーであることが印象的でした。

そのツアーで通訳をしてくれたクルド人青年が、自宅に私たち4人の学生を招待してくれました。その時、彼が語ったことが印象に残っています。「君たちは自由にこの国を出ることができるが、自分たちはそれができない」。彼が所属する学生同盟は、当時の大統領であったサダム・フセインの息子が代表を行っていました。当時イラクは大統領の独裁政権下にあり、その大統領が率いるバース党という政党の傘下にある学生団体だったため、秘密事項の漏えいや確固たる自分たちの政権を崩されるといったことが無いよう、何らかの拘束力があったのではと思います。

クルド人の友人の言葉を聞いて、私は「自由って何だろう?」と考えさせられました。彼とは帰国後もつながりを持ち続けていて、彼の言葉はずっと気になっていました。なぜ自分は自由で彼は自由でないのか? 生まれた所が違うだけで、なぜこんな不公平なことが起こるのだろうか? 日本という恵まれた環境にいる自分が、何ができることがあるのだろうかと考えるようになりました。それが、協力隊の仕事につながっていったと思います。


田村雅文(3)バグダッド大学での学生と

大学の専攻は生物化学で、細胞や植物を扱うような勉強をしていました。もともとは医学部希望でした。医者になって、何らかの形で人助けしたかったのだと思います。でも医学部を受けて落ちてしまった。一時は浪人も考えたのですが、父親に諭されました。「医学部に入るために何年も浪人するのは人生の無駄だ。大学が4年間終わって、その時にまだ入りたければ、あらためて行けばいいいじゃないか」と。

やがて研究室の中で細胞に向き合っているより、もっと外に出て色んな人と出会い、交流していく方が面白く、自分に向いていると思うようになりました。そして国際協力の道に進むことを考え始めました。
大学を出てすぐに協力隊として働くという選択肢もあったでしょう。しかし、それまで貧困や開発、国際協力、援助につ

いて体系立って勉強をしたことがなく、その必要性を感じてイギリスの大学院に行くことにしました。

田村雅文シリアでの海外青年協力隊の仕事で、環境の大切さを現地の人たちと考える事業を行っている様子

その援助はどうしても必要か?

大学院では1年間国際開発学を勉強しました。世界の貧困解決、安定、平和の実現などがテーマです。ある地域の水問題、農業の問題、汚染、経済的な貧困などに対して、どういう世界の支援が必要なのかといったことや、途上国と先進国の格差などを勉強しました。

しかし、どうしても「机上の空論」であるという気持ちは抜け切れませんでした。アフリカや中東への援助を考えるにしても、アフリカに実際に行ったことがない。中東は旅行では行きましたが、住んだことがないためにリアリティがわかない。そんな状態で机の上だけの勉強をしていても、あまり意味がないと感じるようになりました。実際にフィールドに行って、現地の人がどんな生活をしていて、どんな問題をかかえているのか、いないのかを、自分の目で見る必要があると思いました。援助というのはこちらが良かれと思ってやっても、実際には現地の人の役に立っていないということがあるのではないか、という問題意識もありました。

こう考える背景には、大学院在学中の出来事があると思います。イラク戦争後の2004年春にも、日本医学生会議の仲間と3人でイラクへ入ろうとしました。2003年のイラク戦争を経てフセイン政権が崩壊した後、現地はどうなっているのかということに興味がありました。行って現状を知り、世界に発信できないかと考えたのです。この時は、2000年にイラクに行った時に知り合ったクルド人の友人に通訳を頼むことにしていました。

2003年5月にイラク戦争の終結宣言が出されたものの、イラク国内では、戦争を主導したアメリカに抵抗する反米武装勢力のテロが頻発し、多数の死傷者が出るなど治安が良くない状況が続いていました。

イラク入りを目前にヨルダンにいた時、私が師と仰ぐ平山恵さん(現・明治学院大学国際学部准教授)から連絡がありました。彼女とは、2000年の「日本イラク医学生会議」 でイラクへ行く準備中に知り合いました。当時、会議のメンバーがいた筑波大学で講師をされており、1996年にWHOの調査でイラク入国をした、日本では数少ないイラク訪問経験者であったため、お話を聞きました。それ以来の付き合いです。

「イラクに入るなら遺書を書け」と平山さんに言われました。「自分はイラクへ全くの自己責任で行く。もし亡くなることがあっても、日本政府、関係者には一切迷惑をかけない」と。

田村雅文シリアの首都にて。雪が降った冬の日


こうも問われました。

「仮に外国人を狙った武装勢力があなたたちを狙った場合、あなたを守るためにクルド人の友人が傷つくことになるかもしれない。もし彼がなくなるようなことがあった場合、そのダメージより大きなメリットを持って日本に帰れるのか? ジャーナリストでもない一学生が、現状を知って日本に発信することと、起こるかもしれない負のリスクを天秤にかけたとき、価値ある発信が行えるのか、それを自分に問いかけてみるべきだ。それでも行く価値があると思えなければ、行くべきではない」
数日間考え、私は行かないという決断をしました。あの時、平山さんに言わなければ、おそらく入っていたと思います。その後たちまちのうちにイラクの状況は悪くなり、4月には3人の日本人が武装グループに人質として拘束される事件が起きました。

あの出来事があって以来、行動を起こす前に、その行動が負のインパクトをどれだけ引き起こすかを考えなければいけないと気付かされました。援助も同様で、援助をすることでマイナスのことが引き起こされないか、あるいは起こりうるマイナスを以下に軽減するかを常に考えながら実施していく必要があると思っています。

シリア人が持つ温かいオーラ

2005年に大学院を終え、青年海外協力隊としてシリアへ赴任しました。シリアは私の希望でした。イラクの経験から中東に興味を持つようになったからです。
当時中東での募集はヨルダン、シリア、イエメンがあり、私のやりたいことに最も近かったのが、シリアの募集案件でした。環境問題に関する状況を調査したり、環境の大切さを伝えるものです。
具体的には農村部で生活環境の調査を行い、村の人と話し合いながら生活改善を行いました。この農村で平山さんのゼミで学ぶ明治学院大学の学生を受け入れ、10日間のホームスティを行ったりもしました。
もし当時ヨルダンに同じような案件があったら、ヨルダンを希望していたでしょう。そうしたら、今は全く違った人生を送っているかもしません。

現地では、首都ダマスカス郊外にホームステイしていました。
シリアの人は、よくいえば本当によそ者に温かい。悪く言えばおせっかい。「ほっといてくれ」と言いたくなるくらい何かと気にかけてくれる人たちばかりでした。ホームステイしていた家のお母さんから、よく言われました。「なんで一人でここに来ているの?」と。彼らにとって家族を離れて一人で暮らすということは、想像もできないことなんです。家族を何よりも大事にしている。一人でシリアに来た外国人の私にも、まるで息子のように温かく接してくれました。

シリアは決して日本のように発展はしていませんし、物質的には豊かではないかもしれない。でも、家族や人々のつながりという面では、とても豊かなものがあると思いました。ある村に行った時、村長さんに言われました。「マサ、この村を見ろ。何でもあるだろう」。それを聞いて、私は苦笑してしまいました。娯楽も何もない村です。でも村長さんは言うんです。「ここには家族がみんないる。土地もあるし、ヒツジも牛もいるだろう」。

その時、目が覚めるような思いがしました。人生にとって本当に大切なものは何なのかを思い知らされた気がしたからです。それは家族や人とのつながりではないか。時におせっかいと思われるくらい皆が助け合い、互いを気にし合って暮らしているシリアの人たちの生き方は、人としての理想の生き方ではないのかと思うようになりました。

シリア赴任中、私は祖父の死に直面しました。一方が入った時は、すでに祖父は亡くなっていました。シリアの友人たちに祖父の死を話したところ、当然帰国するだろうと私の帰り支度の準備をしてくれました。彼らにとって、祖父の死に対面しないという選択肢は、ひとかけらもなかったわけです。今シリアを思い出すたびに、この家族を思いやるシリア人たちの温かい心を思い出します。
彼らにとって、生きる中心には家族や人のつながりがあり、その片手間くらいに仕事があります。協力隊を終えた後、日本で5年ほど民間企業に務めましたが、完全に会社中心の生き方でした。日本では「社会人になる」と言いますが、それはある意味「会社人になる」ということ。それはシリアで暮らした私にとって、とても違和感のあることでした。

帰ってからも、あの国が持っていた、温かいオーラが私の心から離れませんでした。今、シリア難民支援の仕事を続けていられるのは、もちろん色々な人のサポートがあるからですが、シリアの与えてくれたもの、家族の大切さや思いやりがあるからです。

助産院での出産を経験して

JICAの任期を終えて帰国した後、フィルターメーカーに就職しました。そして在職中の2010年2月、シリアのJICA事務所で知り合った女性と結婚しました。
長男が生まれたのは、2011年の4月。震災の翌月です。最初の会社を辞め、次の会社に移る時でした。実は転職する時、意図的に子どもが生まれるタイミングに仕事をやめ、次の職場に移るまで2ヶ月の間を設けたんです。出産という出来事に自分も関わりたかったからです。

子供は助産院で産みました。これは、シリアに滞在したのと同じくらい非常にかけがえのない貴重な経験でした。
助産院で産もうと言ったのは私です。もともと医学部志望だったために、東洋医学や医療に頼らない生き方、予防医学などに興味がありました。病気でもない妊婦が出産のために病院に行くということに違和感を感じていました。しかし悪阻で辛い思いをしていた妻が病院で産むと言うので、静かに従いました。

クリニックから紹介状をもらって行った大病院の診察で、朝10時に予約していたにもかかわらず4時間待たされました。その挙句に、診療はたったの4分。こちらが医師に何か質問しても、そっけない返事しか返って来ない。悲しさと空しさがこみあげました。妻も気持ちは同じだったようでした。その後、二人で家の近くの助産院を訪れました。

それは、ごく普通の家でした。畳の部屋に通され、まず「おめでとうございます」と言われたのです。病院で聞いたことのない言葉でした。お茶を出してくださり、こちらの色々な話をじっくりと聞いてくれました。
実は妻の出産予定である4月は、すでに予約でいっぱいだったんです。にもかかわらず、ぜひここでお願いしたいと頭を下げました。「旦那さんの熱意に負けました」と、院長に言われました。

出産の前後、私はずっと助産院に寝泊まりしていました。助産婦さんの仕事に興味があったからです。きっと妻よりも長く、助産婦さんと関わったでしょう。彼女たちの働きぶり、対応や態度には本当に頭が下がりました。ともかく明るいんです。院長が最も大事にしていることは、常に女性に寄り添うということだそうです。妊婦を片時も一人にしない。それによって、妊婦と助産婦との間に強い信頼関係と絆が生まれ、女性が安心して産める環境ができている。

助産院にいる間、そこで出産したお母さんたちの手書きのメッセージブックを読んだりしていました。メッセージの中でほぼすべての女性が書いていることがありました。一人目を病院で産んだ時、いかに辛い思いをしたか。二人目を助産院で産んで本当によかったと。助産院で産んだ女性は、必ずもう一人産みたいと言うそうです。それは助産院が産みやすい環境であり、出産がすばらしいと感じる場所、すべてを誰かに依存できる場所だったからでしょう。人と人との関係がともすれば希薄になりがちな今の日本で、このような場所があるということに感銘を受けました。

田村雅文(6)シリアの首都・ダマスカス郊外で調査した村にて

妻の出産にも立ちあい、彼女の体を支えました。一緒に産んだと思うくらい汗びっしょりになりました。妻に対して、命を誕生させるために命をかけてくれた敬意と、それ以上に畏敬の念というものを感じました。

この経験から、生と死を考える場を創れないかと漠然と考えるようになりました。私自身は、出産を通して生きていることへの喜び、妻への敬意などを体験しました。これによって「生きる」という、かなり漠然としたことを「自分のこと」としてとらえることができるようになったという思いがあります。たとえば子供を産むということに色々な人が立ち会えるのなら、生というものを最もリアルに感じることのできる瞬間ではないかと思うのです。年間100人の友人に助産院での経験を話そうと決めたのも、こうした気持ちからです。

今、日本で自殺や心の病が増えているのも、生と死をリアルに感じられる瞬間が少なく、どう生きたらいいかわからなくなっている人が増えているからではないでしょうか。生と死の体験をしたからといって、必ず日本の自殺やうつを減らせるかといえば、それは難しいかもしれない。ただ漠然としたものや他人事を「自分のこと」として捉えられる経験は、人生をより豊かに、社会における人と人の関係性をより深く濃いものにするのではないかと感じています。

そんな思いがあり、2012年2月に会社をやめました。生と死について考える場を創りたいとは思ったものの、具体的に何をどんなところでやるかは、当時漠然としていました。

血塗られた少年の死体

しかしそれと時期を同じくして、シリアでは内戦が激化し、状況がますます悪くなっていきました。生と死が隣り合わせのシリアを放っておいていいのだろうか、シリアに関わってきた以上、自分が何かをやらなければならない、との思いにかられるようになりました。日本でほとんど知られていないシリアが「アラブの春」という一言でくくられ、時折ニュースとなって紛争シーンのみがテレビに登場することに耐えられませんでした。そこで3月にサダーカを立ち上げました。

4月にヨルダンへ調査に行きました。ちょうど同じ月に、ヨルダンにあるJICAシリア事務所の公募がありました。JICAの邦人職員はシリアから撤退しているため、ヨルダンから遠隔で仕事を行います。ちょうどシリア勤務経験者が求められていました。縁あってJICAシリア事務所の企画調査員としてヨルダン赴任となり、同時に現地でサダーカの活動を行うことになりました。

田村雅文ヨルダンの難民家庭訪問時(背景は右の子どもが集めた捨てられたパン)

ヨルダンには現在60万8千人ほどのシリア人が難民登録をして暮らしています。約9万人が難民キャンプに住み、それ以外はキャンプの劣悪な環境を避けるため、あるいはキャンプのキャパシティが足りず、一般のアパートを借りて住んでいます。サダーカが支援するのは、主に後者の人々です。彼らは難民キャンプでは無償である家賃をヨルダン人の大家に支払う必要があり、サダーカはその家賃の一部も支援しています。また彼らの紛争前の生活や紛争後の顛末、今の思い、将来への期待といったことに耳を傾け、日本でチャリティイベントで集めたお金や洋服を渡しています。

難民の方たちの家庭では、子どもたちが残飯を集めて家畜の飼料屋に売るなどをして家計を助けている家は後を絶ちません。世界各国から国連への支援はアピール金額の半分程度です。家賃を払えなくなって紛争下のシリアへ戻る人もたくさんいます。援助というものが、ざるに水を注ぐようなものだという気持ちは拭えません。一刻も早い根本的解決、紛争解決しかないと思っています。

戦争は生と死が隣り合わせの世界です。シリアの死者数は、すでに15万人を越えたといわれています。難民は家族の誰かを失っています。彼らとの話の中には、必ず誰かの死についての話があり、その死の上に彼らの生は成り立っているのです。

私が2012年にヨルダンに赴任後して、初めて訪れた家でのことです。8歳の少年が携帯電話を差し出して、「6歳の弟が死んだときの様子なんだ」と私に映像を見せました。それは弟が血まみれになって、もがき苦しんであえいでいる映像だったのです。私は平静を保つのに必死でした。少年の家族は、紛争が始まってヨルダンに来るまでの間、多くのシリア人と同様、国内の親戚等の家を3ヶ所転々としてきました。戦渦の広がりを受けて国内で頼る人がいなくなり、国外に出てきた。その逃避行の中で、6歳の男の子は息を引き取ったのでした。

ヨルダンには、手足を失った主に男性の難民たちが一時的に療養する宿泊施設がいくつかあります。こうしたセンターを訪問すると、ほぼ皆が親や子ども、親戚の誰かを失っています。その中に、足と目の治療を受けている35歳の青年がいました。彼は妻子とともに道を歩いている途中、戦車による砲弾を受け、奥さんと1歳と3 歳の子どもを亡くしました。残された唯一の2歳の娘さんは、ザータリキャンプ(シリア北部の砂漠地帯に広がる難民キャンプ)にいる彼の母親に預けています。彼は家族の話をしてくれた際、すすり泣きながら、携帯の待ち受け画面にある残された娘の写真を見せてくれました。彼は僕と同い年で、無くした子どもも自分の子どもと同じ年であり、彼の深い深い心の傷を想像するに、やりきれない思いになりました。

拡大ヨルダンにある、負傷したシリア難民の一時宿泊施設にて

家族や人との親密で温かなつながりの中に生きているシリアの人々が、まるで虫けらにように肉親が殺されていく日々を過ごしている。彼らの苦悩と悲しみの大きさ、深さを思う時、胸が締めつけられてたまらなくなります。今、おびただしい無数の死を経験してきた難民たちと関わる中で、私は自分自身がある意味、戦争体験者に近い存在になりつつあると感じています。こう言うと、シリアの今まさに戦時下にいる人たちには大変失礼に当たるでしょう。しかし今自分は、シリアの紛争を他人事ではなく、ある意味「自分のこと」としてとらえているような気がしています。

2015年7月でJICAの契約が終わります。ヨルダン滞在を切り上げて帰国するかどうかは、まだ未知数ですが、仮に帰国するにしても、シリアには今後も関わり続けるでしょう。同時に日本でまれ育った私には、日本がどうなっていくのかを考えずにはいられません。シリアに関わりながら、生と死について考えていく場作りができたら、と考えています。

その際にヨルダンでシリア難民の方々と接してきた日々は欠かせない要素です。そこで体験してきたことを伝えるのはもちろんですが、いかにして他人事を自分のこととしてとらえてもらえるかを考えた時、遠い他国のことを伝えるだけでは限界があり、生活に身近な所で何かを感じたり体験する場が必要だと思っています。助産院の近くで、あるいは助産院と併設するような形で、子どもからお年寄りまでが寄り合える場を創るのも一案です。読み書きそろばんのような学習塾をやりつつ、ヨルダンの経験も共有しながら皆でお互いに学びあえるような場所。そんなことができたら面白いかもしれないと思っています。

注)ルワンダ虐殺
ルワンダはアフリカの赤道直下にある小さな国。この国で1994年に発生した、多数派フツ族による少数派ツチ族の大量虐殺。フツ族出身のルワンダ大統領ハビャリマナの暗殺を契機に、フツ族の過激派・民兵集団が、約3か月間に80万~100万人のツチ族や穏健派のフツ族を殺害した。 

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