幸せとは目の前にある日常そのもの*旅で学んだ幸せの本質①
もし人生に生きる目的や生きる意味があるとしたら、私は「楽しく幸せに生きること」だと思います。
ではどうしたら幸せになれるのか?
それは時にとても難しいことのように思われています。特に今のようなコロナ禍では。
でも実際にはとても簡単なことなのかもしれません。
幸せとは「気づく」こと
幸せになれる1つの方法は「気づく」ことです。自分がすでに十分に恵まれていることに気づくこと。身の回りにすでにたくさんの小さな幸せがあることに気づくことです。
でも私も含めて多くの人はこれができません。なぜなら「何かを得る」「何かを達成する」ことでしか、幸せになれないと思いこまされているからです。
幸せな男性と結婚したら幸せになれる、有名な大学に入れば幸せになれる、大きな会社に入れば幸せになれる、年収1千万円なれば幸せになれる‥。
でも何かを得ないと幸せになれないと思っていたら、一生幸せになれません。
年収1千万円になれば幸せだと思ったら、実際に1千万円になった2千万円欲しくなる。2千万円になったら3千万円欲しくなる。欲とはそういうものです。
3LDKの家に住んだら、今度は4LDKの家に住みたくなる。
何かを得る・達成することで幸せになると思っていたら、実際それを達成したら、もっと上を目指したくなるものです。
そうではなく「自分はすでに十分恵まれている」と気づくことで簡単に幸せになることができるのです。
パンだけで楽しいのか?
私がそのことに気づいたのは、砂漠で遊牧民サイーダと暮らしてからです。
エジプトの砂漠でたった一人で暮らしている。2003年に彼女と出会ってから、これまで何度もいっしょに生活してきました。
しかし最初のうちは、いつも思っていました。「いったい何が楽しくて、こんな砂漠に暮らしてるんだろう?」
食べるものは毎日パンと少しの野菜くらい。水は泉に行ってくまなければならない。
砂漠には娯楽と呼べるようなものはありません。ただ砂と山と少しの木が生えているだけ。
その生活は単調そのもので、朝起きて、ラクダの放牧をして、礼拝し、寝るだけ。
「いったい何が楽しいんだろう?」と不思議でしかたがありませんでした。
世界は神秘に満ちている
そんなある日、決定的なできごとが起こったのです。
いつものように朝起きて、彼女とパンを食べていた時のこと。彼女がおもむろに近くの山を指さして言ったのです。
「見て!太陽が山の上から顔を出す位置は、毎日ちょっとずつ変わるんだよ」。
言われてみたら、確かにそうです。地球は太陽の周りを傾いて少しずつ回っているから、それが通る位置は毎日少しずつずれていく。こういうのを私たちは学校の理科の授業で習います。
でも彼女は学校に一度も行ったことがないのに、実体験からそれを知っている。そしてそのことにとても驚き、喜んでもいる。
その時に思いました。
これが「幸せの本質」だと。
幸せや喜びのタネは、私たちの身近にたくさんある。それに気づくか気づかないか、だと。
この世に「あたりまえ」はない
私たちの普段の身の回りにも、たくさんの小さな幸せがあります。
道端に綺麗な花が咲いていた。朝焼けや夕焼けがとても綺麗だった。温かい布団でぐっすり眠れた‥。
そんな小さな幸せに、気づく人と気づかない人がいます。
これらは「あたりまえ」ではありません。それが叶わない人もいます。
雨露をしのげる家がある、毎日3度の食事ができる、あたりまえではありません。
耳が聞こえる、目が見える。これもあたりまえではない。そうではない人もいます。
私は「目が見えないから不幸だ」と言っているわけではありません。
そうではなく目が見えることも耳が聞こえることも「奇跡」です。
でも、自分がすでに持っているものを「あたりまえ」と思ってしまったら、日常が退屈でつまらないものになる。
そうではなく、ありがたいと思ったら、感謝と幸せな心で満たされます。
幸・不幸は自分の「心」次第
つまり幸福か不幸かは、自分の心が決めているものなのです。
客観的な幸福とか不幸があるわけではありません。
だからすでにたくさんの幸せに恵まれていると気づくことで、幸せになれる。
幸せになるのは、実はとても簡単だとわかるでしょう。
幸せは努力したから得られるものではなく、ただ「気づく」だけでいいのです。
幸せはどこか遠くにあるものではなく、すぐ手の届くところにある。
確実に今すぐ幸せになれる方法があるとしたら、どこか遠くにパラダイスを求めるのではなく、今目の前の日常がユートピアだと気づくことなのです。