今の自分を受け入れて生きる*旅で学んだ幸せの本質②
幸せになるために誰でもできる簡単な方法は「今のままの自分で十分」と気づくことです。自分をそのまま受け入れ、肯定するだけ。
でもほとんどの人は(私も含め)、この簡単なことができません。なぜなら、私たちはずっとこう言われて育ってきたから。「今の自分に満足するな」。もっと上を目指せ。頑張れ。
がんばることが良いという価値観
「努力」や「頑張る」が、日本ではとても評価されるからです。でも「今の自分に満足するな」「頑張れ」とは、今の自分を否定することです。自分を否定したら、とても辛くなります。
でも知らず知らずのうちに、私たちは自分を否定する思考回路に陥っている。
そして「頑張る」が良いことだと信じ込んでいる。
病気の人にも「頑張って病気治してね」と言う。でも病気の人が頑張ったら、さらに病気になってしまいます。
でも頑張るのが良いことだという価値観から、なかなか抜け出せません。
上を見続けたら一生満足できない
年収1千万円になったら、「まだまだ十分じゃない、もっと頑張って2千万円を目指差ないと」となります。
2千万円になったら、「これで満足してはいけない、3千万円を目指さないと」となります。
こんな暮らしでは、一生満足できません。そうではない、今のままの自分で十分なんだと認めてあげること。
がんばることをやめれば、人生は楽しくなります。
人生は「修行」ではなく「楽しむ」場
もちろん努力を否定はしません。これまで日本人の日々の努力の末に、日本はここまで発展してきたわけです。
でも「努力こそ最善」という価値観が個人の暮らしのすべてを支配してしまったら、とても息苦しい。人生が「修行の場」になってしまいます。
努力することも時には必要でしょう。憧れの大学や会社に入るために一生懸命頑張るとか。でもそれは一時的であって、ずっと頑張り続ける必要はないのではないでしょうか。
「進歩」とは無縁の砂漠で暮らして
私がこう考えるようになったのは、遊牧民サイーダと砂漠に暮らした経験があるからです。
砂漠に行く前は、私も進歩や発展こそが素晴らしいことだと思っていました。
人間、日々努力し、上を目指すべきだ。そうすることで人生が充実し、そういう生き方こそ生きている意味があると思っていました。
目標を掲げて、それに向かって頑張ってこそ、生きる甲斐があると。
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しかし砂漠の暮らしは、進歩とか努力とか発展とは無縁です。
ラクダの放牧が、以前は5時間かかっていたが、3時間ですむようになった、などということはありえません。
もちろん暮らしの上で小さな変化はあります。町に暮らす遊牧民が携帯電話を持つようになったとか、荷物をラクダでなくトラックで運ぶようになったとか。
しかし基本的な暮らしは変わらない。朝起きて動物の放牧に出かけ、日が高くなったら木の下で休み、暗くなったら寝る。淡々と同じような毎日が続いていく。
最初のうちは思っていました。
「こういう暮らしは、はたして生きている意味があるのだろうか」。
そして何度も砂漠で青い空を眺めながら、ため息をついたものです。
でも何度も砂漠で暮らすうちに、思いました。「上を目指さないって、なんて心穏やかな暮らしなんだろう」と。
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さらに思いました。これが人間本来の暮らしではないだろうか。
ただただ同じような毎日を積み重ねていくこと、これこそが「生きる」ということだと。
「努力して上に行かないと生きている意味がない」と思っていたが、それは間違いではないかと。
そう思ったら、ふっと肩の力が抜けました。
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生きること。それはとてもシンプルなこと。
ただただ平凡な毎日を積み重ねていくこと。これが生きることの本質だと遅ればせながら気づいたのです。
今日が特別な日でなくてもいいし、明日も平凡な1日でいい。何も特別なことをしなくてもいい。ただ生きているだけ。それで十分に素晴らしい。
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よく頑張った人、すごいことを成し遂げた人が立派な人と言われます。
そうでない。ごくごく平凡な、ただ生きているだけという人の人生も、それは輝いた1つの人生です。
頑張ってすごいことをしたから、何かすごい発明をしたから、その人の人生は素晴らしく、ただ生きているという人の人生は劣った人生だ、そういうことはありません。
生きているだけで価値がある。
なぜなら、生まれて、これまで生きてきた、そのこと自体が奇跡だから。
ただ生まれて食べて寝て、生きて死んでいく。それだけで十分に尊い1つの人生なのだと私は思います。