イランの若者が語るアメリカとロシア*『季刊アラブ』
「季刊アラブ」秋号No.185に寄稿しました。今号のテーマは「ウクライナ関連決議に反対や棄権をする国々の論理」です。決議に反対の国は北朝鮮、ニカラグアなど、棄権は中国、インド、ブラジルなどですが、私はイランについて書かせていただきました。といっても固い政治論ではなく、「若者が見たアメリカ・ロシア観」といったやわらかめのエッセーです。以下はその原稿です。
「いつかアメリカに住みたい」
「二人で外を歩くのは難しいんです」。そう言うとAはポッと顔をあからめた。彼はイランのクルディスタン州に住むクルド人。タブリーズの大学で電気工学を学んだ後、故郷の小さな町で時々子供たちに英語を教えたりして収入を得ていた。彼とはマリヴァンに行く乗り合いタクシーの中で知り合った。そして家に呼ばれ、3日間ほどお世話になった。
細身でやさしそうな顔立ちの彼には、当時「ガールフレンド」と呼べるかどうか微妙な相手がいた。知り合ったのは天文サークルで、彼女と会うのは、ほとんど天文サークルでだという。
「一緒に公園とか歩いたりするのは良いんでしょ?」と聞くと、「そうですね。でもしょっちゅうは歩けません。彼女が両親に知られると怒られるからです」と言うと、またぽっと顔をあからめた。当時彼は26歳だったが、私はまるで中学生か小学生の男子と話しているような気分だった。
彼の家にいる間、市内の公園に彼の友人たちも交えて出かけた。地方の町では公園をぶらつくのが唯一の娯楽だ。そこには男性だけのグループ、女性だけのグループ、家族づれがあふれていたが、カップルらしき人は皆無だった。イランでは自由恋愛を楽しむ男女もいないわけではないが、クルドの地方都市はまだまだ保守的なようだ。
「たぶん、私たちの関係はおしまいになるでしょう」とAは言った。
ーなぜ?
「アメリカの大学で学びたいと思っているんです。そうしたら離れ離れになるから」
イラン人にとってアメリカは憧れの国だ。トランプ政権前、年間5千人のイラン人が永住権を取得できる抽選の枠があり、多くの人が応募してアメリカに渡ることを夢見ていた。それを知って私は驚いた。1979年のイスラム革命、アメリカ大使館人質事件を経て、二国間の国交は断絶。今も国交断絶が続く。当然国民はアメリカが嫌いだろうと思っていたからだ。しかし実際には多くのイラン人が「いつかアメリカに住みたい」と思っていた。
Aに会ったのは2016年。その後、彼の人生はドラマチックな変化を遂げた。2017年にイランを離れてイラクへ密入国したのだ。そして幾多の困難を乗り越え、今はイギリスで働いている。
あの細身で繊細な面持ちの彼のいったいどこに、そんなエネルギーが隠されていたのか?
彼にアメリカ、ロシアへの思い、今にいたる経緯などを聞いた。(以下はAの語り)
「中東の日本」と呼ばれたイラン
イラン人の多くがアメリカに憧れるのは、たぶん仕事のチャンスとかがたくさんあると思うからじゃないかな。すごく近代化しているし。70年代後半シャーが統治していた時代にイランはすごく発展した。当時は政治的にも経済的にもアメリカと親密な関係にあった。イランは「中東の日本」と呼ばれていたんだ。ビザなしでヨーロッパにも行けた。そんなイランを見て、韓国は「ソウルをテヘランみたいにしたい」と言っていたらしい。でも革命で変わってしまった。多くのイラン人がアメリカに逃げた。そしてイラン人は他の国のビザが取りにくくなってしまった。でも今もイラン人はアメリカが大好きだ。アメリカが嫌いなのは政府だけだよ。
僕は長い間アメリカに住むことを夢見ていた。でも希望だった大学に入ることはできなかった。学歴もそれほど良くなかったから。そしてトランプ政権になって、イランを含めた6カ国の国民の入国を禁止したから、アメリカに行くことはますます難しくなった。そこで他の国に行くことを検討し始めた。そしてヨーロッパに行こうと思った。明確にどこの国に行こうかは決めていなかったけれど。
イランの孤立を利用するロシア
イラン人はロシアのことを好きじゃない。ロシアはいつも自国の利益のために、国際社会でのイランの弱く孤立した立場を利用してきた。公海へのアクセスとか資源の確保のためにね。過去にイラン北部を何度も侵略している。こういうのをイラン人は決して忘れない。でも政府はいつもロシアの見方をする。ロシアは国際社会での地位を確保するためにイランを政治的にサポートしていて、そのサポートが欲しいんだ。
実はイランにいた頃、ロシアに旅行しようと思ってビザを申請したことがある。でも下りなかった。イランとロシアの親密な関係にもかかわらず。せっかく友達と二人で飛行機のチケットも予約していたのに。ロシアの文化に興味があったんだ。サンクトペテルブルクやモスクワも見てみたかった。ネットでロシアの友人と知り合って、彼にも会いたかった。彼はユーチューバーだ。あとロシア北部のムルマスクという町からノルウェーに行けないかと思っていた。つまり外国に行ければどこでもよかったんだ。
僕はクルドの独立を求める政治組織のメンバーだった。それがイランのインテリジェンスに見つかってしまって、イランにいては危険だと思った。そこでイラクに行くことにした。他のイラン人もそうだけど、とりわけクルド人はイランの中で苦しい状況に置かれている。イラン政府に敵対する政治組織がいくつかあるから。
君はイラン人はそれほど不幸そうには見えないって言ったね。たぶんそれはイラン人がいつも物事の良い面を見つけようとするからだと思う。それにお客を招いたら、ホストとしてゲストにできるかぎり楽しんでほしいと思う。あとたぶん英語力の不足から、自分の深い感情を表現することが難しいからじゃないかな。
僕が国を出ることについて、母は当然反対した。「国を出ることが自分にとってベストか、よく考えてから決断して」と何度も言った。「それがわからなければ旅をあきらめなさい」と。僕はイランを出る数ヶ月前から準備をした。それでもクリアにならない点がいくつかあった。でも母には「自分の身の安全を最優先する」と言い続けた。母は泣いていた。でも今では僕の選択が間違っていなかったと言っている。2017年にイランを離れてから一度も家族に会っていない。
ギリシャで2年かけて難民申請
イラクのビザを持っていなかったから、クルド人地区の山岳部を歩いて超えて不法に入国した。一人で。あの頃イラクのクルド人地区は僕にとっては安全な場所だった。チェックポストがない本当の山奥、キツネとか動物がいるような所を通って行った。僕は山間部で育っているから土地勘はあった。地元の人も助けてくれたよ。彼らもイランのクルド人が置かれた状況をよくわかっているから、いろんな人が手助けしてくれた。
イラクではスレイマニアとアルビルに数日間滞在した。スレイマニアでは属していた政治組織の本部に行った。彼らが住む場所やアレンジしてくれた。アルビルではホテルに泊まったけど、とても安価だった。イラクのクルド人はとても親切だ。外国人ツーリストに対しても。
それからトルコに行った。イランから直接トルコに行くのは、シリア難民の関係で国境警備を厳しくしていたから、当時は難しかった。トルコ東部のヴァンに4ヶ月いた。クルド人の町だ。ここですごく良い友達ができて、今も連絡を取り合っている。友人たちが住む家や仕事を探してくれてくれた。僕の家族みたいな存在だ。
トルコとギリシャの国境を不法に越えようと10回トライして失敗した。そこでセルビアに行き、マケドニア、ギリシャに行った。これらの国境は超えるのは難しくなかった。
ギリシャで難民申請をして、パスポートとİDを得た。取得するのに2年かかった。これで正当に働ける権利を得た。3年の間にギリシャで通訳として、いくつかの国際組織で働いたし、ギリシャ語もマスターした。
いつも西欧に行くことを考えた
ギリシャは美しい国だった。だけど僕はいつも西ヨーロッパに行くことを考えていた。ギリシャでは僕が学んだ電気工学を生かせる仕事がなかったんだ。通訳の仕事では満足できなかった。トルコとギリシャにいた時、ドイツやスウェーデン、フランスへの興味がわいた。それらの国にインターネットを通じて友人をつくり、リサーチをして、どこの国に行こうか検討した。
中でもスウェーデンは魅力的だった。ウプサラ大学に勤める天文学者の友達がいて、彼と数年間連絡をとり続けていた。彼はいつも自国での可能性や機会の平等を力説していた。イランではクルド人は二級市民だ。仕事も教育も海外への渡航もクルド人ということで悪影響を受ける。でもスウェーデンではそんなことはない。その人が何を考えているか、どんなゴールを描いているかが重要なんだ。そこでネットでスウェーデンの情報を集め、やっぱりこの国は僕にとって理想的な国だと思った。そこでスウェーデンに行くことにした。
ギリシャを後にして、まずドイツへ行った。ベルリンに4日間滞在し、電車でデュッセルドルフに行った。同郷の友人が住んでいたから。そこで2週間滞在した後、バスでパリへ行った。オランダやベルギー、ルクセンブルクを通って。
パリには2週間いて、たくさん美術館を訪れた。フランス北部にフランス人女性と結婚して住んでいるイラン人の友人がいて、招いてくれたので、そこで1週間滞在した。そこでもギャラリーめぐりをたくさんした。またパリに戻ってフィンランドへ行き、1日滞在し、スウェーデンへ行った。
ストックホルムに来たのが2年前だ。人々がとてもフレンドリーでウェルカムなのに驚いた。1週間の滞在中、新しい友人が毎日できた。誰もが流暢に英語を話すんだ。でもここで一生暮らすには、スウェーデン語が堪能じゃないと難しいと思った。それには2年かかるだろう。ギリシャ語をマスターするのに3年かかったんだ。僕のやりたいことをやるには、英語が母語の国に行くのが良いだろうという結論になった。その選択は間違っていなかった。でもあの国には素敵な思い出がたくさんつまっている。また行きたいと思っているよ。
今はイギリスのリバプールに住んでいる。とても美しくて歴史的な町だ。ここでネットワークエンジアの仕事をしている。時々英語の通訳のアルバイトも。
イランに帰ろうとは思わない
2017年にイランを離れてから、僕にはたくさんの変化があった。ここにはクルドやペルシャレストランがある。でも僕はいつも母の美味しい手料理を思い出す。特にドルマだ。君も覚えているだろう?
いつかイランに戻ろうとは考えていない。かといって、ここにずっと住むつもりもない。どこか1ヶ所にずっとい続けることは、僕にとって悪夢に近い。たとえベストな場所であっても。もっと色々な国や場所を見たり暮らしたりしてみたいんだ。
でもあと数年はここにいて、ちゃんと自分の居場所を築くことが必要だと思っている。イギリスはギリシャよりずっとたくさんチャンスがある。ここにしばらく暮らしながら他のいろいろな国に行ってみたいね。
今の僕にとってアメリカに行くことは難しくはない。もし良い仕事のオファーでもあればアメリカに行ってもいいと思っている。でも今じゃないんだ。