ASYA(アシア)さん(本名:槌谷真理子さん・36歳)は、日本人として唯一、中東の地レバノンのエンターテイメント・エージェンシーに所属するベリーダンサーだ。これまでレバノン、アルジェリア、アブダビ、ドバイなどの5ッ星ホテルやナイトクラブで、数々のステージを踏んできた。
肌を露出し、なまめかしいポーズで踊るベリーダンスは中東が発祥と言われる。日本では女性の習い事として定着し、ベリーダンスサークルを設けている大学もある。しかし現在イスラム教徒が多数派を占め、女性が肌を見せない中東の国々では、肌をさらす衣装を身に付けるベリーダンサーへの風当たりは強い。
以前、エジプトでプロとして活躍する日本人ベリーダンサーに話を聞いた時、彼女が語っていた言葉が印象的だ。「ベリーダンサーをしていると言うと、それだけで相手の顔つきが変わるんです。ニヤニヤされたり、イージーな女性だと思われたり……。こちらでは、ベリーダンサーといえば娼婦、そんなイメージなんです」「ベリーダンスはアラブ人にしか踊れない」という現地の人の思い込みもある。アラブ人や欧米人の容姿を持つダンサーが好まれるという現実もある。
そんな中、ASYAさんは女性一人単身で中東に渡り、各国で活躍してきた。その国は、レバノンやアルジェリアなど、政情が安定しているとは言いがたい場所だ。
世界を股にかけて活動するバイタリティの源はどこにあるのか、日本人ダンサーとして中東で踊ってきた経験や苦労とは、どんなものなのか……私の興味は尽きなかった。
マイケル・ジャクソンと名を連ねる女優に
幼い頃から、父親の仕事の関係で国内や海外を点々としてきた。北海道で生まれ、小学校までに東京と福島で過ごし、10歳でアメリカへ。帰国後は宮崎の中学に入り、高校はシンガポールのインターナショナルスクールに通った。
小さい頃からの生い立ちが、世界を股にかける行動力を生み出しただろうか。
「たしかに移動には慣れていましたし、様々な国の人たちや文化と交わることで、肝がすわったと思います。世界中で通じる英語も話せるようになっていましたし。でも小さい頃は、言いたいことを言えないようなところもあったようです。これは父に聞いた話ですが、ごく小さい頃にビー玉で遊んでいて、それが父の座布団の下に入りこんでしまった。でも『取らせて』と言えなかったそうなんです。それを聞いて、すごく驚きました」
性格が変わったのはアメリカだった。ローカルの学校で現地の子ども達と一緒に机を並べて学んだ。自己主張を重んじる授業のおかげで自分の意見を主張するようになり、1年後には英語も全く問題なく話せるようになっていた。
大学はオーストラリアだった。当時の夢は女優になることで、演劇を専攻した。
「本当はニューヨークの大学に行きたかったんです。今となっては、こんなこと言うのは恥ずかしいのですが、マイケル・ジャクソンと名を連ねるくらいの世界的な女優になるって、勝手に思っていました」
しかし高校でお付き合いしていたオーストラリア人男性の母親に「ニューヨークは危ないから、あそこだけは行かないで」と懇願されたため、そんなに心配してくれているならと、彼のいるオーストラリアで演劇を学べる大学を探した。
大学の友人の誘いで学外のベリーダンス講習に参加したのが、ベリーダンスとの出会いだ。もともと踊ることは好きで、コンテンポラリーダンスやフラメンコなどを趣味でやっていたものの、職業としてのめり込むほどの情熱はなかった。最初のベリーダンスの先生のレッスンは、瞑想などを取り入れたスピリチュアルなもので、ベリーダンスの良さがあまり感じらなかったという。その先生のお休みの間、他の先生のレッスンを受けて、ベリーダンスの虜になった。彼女はレストランなどでも踊るプロのダンサーであり、その踊りは魅せるベリーダンスだった。
「レッスンで斬新な振り付けを惜しみなく共有してくれて、すべてが新鮮でした。踊る意欲をかき立てられ続けました。とにかく楽しかった。何度も彼女のステージを観に行きましたが、彼女がステージに上がったとたん、空気が変わる。力強くもしなやかで、観る人すべてを惹きつけるんです。『私がやりたかったのはこれだ!』と思いました。彼女でなければ、ベリーダンスにそこまでのめり込んでいなかったと思います」
大学の授業以上にベリーダンスに情熱を注ぐようになった。やがて2人目の先生だった師匠と一緒にショーに出て踊り、一人でレストランなどで踊るまでになった。プロのダンサーとして生きていこうという気持ちが固まっていった。
「ベリーダンスが魅せる踊りだということを、師匠を通じて学ばせてもらいました。自分の踊りが観る人の人生に彩りを添える。踊りにそんな素敵な一面があるなんて、私の人生で経験したことがありませんでした。しかもベリーダンスは綺麗なだけではなく、踊りにその人が通ってきた人生が現れる。平らな人生だとダンスも単調になってしまって面白くない。人生経験やその人の人柄なども見える人間くささと味があり、いくつになっても変化しながら踊り続けることができる。それがベリーダンスの面白さです」
一時期はオーストラリアでベリーダンサーとして活動していこうかと考えたこともあるが、両親に帰国を勧められた。
夢はドバイ
帰国後、定時に帰れる派遣の仕事をしながらベリーダンサー、ダンス講師と3つの草鞋を履いていた。一晩に何軒ものショーを掛け持ちすることもあった。
「新宿が終わったら横浜とか、青山が終わったら新宿とか……。今では、よくやっていたなと思います。大変でしたが、踊ることはすごく好きだったので苦にはなりませんでした。今があるのも、この超多忙な下積みの時代があったからこそだと思います」
その頃から、「いつかはドバイで踊りたい」という夢があった。ドバイで認められれば中東全般で認められたということになるとオーストラリアの師匠に聞いていたからだ。
ドバイは、アラビア半島にある「UAE(アラブ首長国連邦)」(7つの首長国が集まった連邦国家)の一つだ。7つの首長国の中で、飛び抜けて発展しているのがドバイであり、世界有数の大都市に挙げられる。ドバイには世界各国の企業が進出し、有名ブランド店が軒をつらねる巨大ショッピングセンター、超高級ホテルなどが建ち並ぶ。
そんな世界のベストのものが集まるドバイでダンサーとして踊るのは、最もステイタスが高いことだと思っていた。
チャンスが訪れたのは、2006年11月にスウェーデンのベリーダンス・フェスティバル(コンテスト)に参加したことだった。
これには、Raqia Hassan(ライア・ハッサン)やRanda Kamel(ランダ・カメル)などエジプトの著名なダンサーの他に、現在ASYAさんが契約するレバノンのエージェンシーLa Maison de l’Artiste(ラ・メゾン・ド・アーティスト)の代表が、審査員として参加していた。ドバイや湾岸・中東諸国の五つ星ホテル、レストランやナイトクラブなどを多数のクライアントとして持つエージェントで、多くのオリエンタルダンサー、歌手、ミュージシャンなどを各国に派遣している。
このフェスティバルで1位になれば、エージェントと契約し仕事がもらえることになっていた。ASYAさんは1位の座を逃したが、エージェントから声をかけられた。
「オフィシャルではないのですが、私は4位だったと聞きました。声をかけていただいた理由は聞かされていませんが、おそらく「契約がとれる」という可能性を感じてくださったんだと思います。この時は『絶対にエージェントの契約を取りに行く』という強い思いがありました。ドバイで踊るという目標を絶対に実現させるという。練習もたくさんしましたし、悔いの残らないようにしたいと思っていました。その気持ちが踊りに現れたと思います」
エージェントには「すぐにレバノンに来い」と言われた。しかし当時は講師もしていて生徒さんをかかえている状態。すぐに行くことはできない。なんとか仕事を整理し、翌年春に現地へ赴いた。
レバノンは、シリア、イスラエルと国境を接する、岐阜県ほどの大きさの小さな国だ。かつては中東のビジネス、金融の中心地として繁栄していた。しかし国内に、キリスト教マロン派やイスラム教スンニー派など18の宗派の人々が住んでおり、それらの勢力争いなどを発端に、1975年から90年にかけて内戦が続いた。内戦終結後も、時折紛争や不安定な状況が起こっていた。
またレバノン南部はイスラエルに対する武装闘争を続けるシーア派武装組織ヒズボラが支配し、たびたびイスラエルとの間で衝突が起きていた。ASYAさんが渡航する前年の2006年にも、衝突がエスカレートして、イスラエルによるベイルート空爆や南部への侵攻があった。
そのような状況の中で、渡航に対して不安がなかったわけではない。だが「せっかくつかんだチャンスを逃すことはできない」という思いの方が強かった。エージェンシーと契約したからといって、すぐに仕事に結びつくわけではなかった。特に日本人ということで、受け入れてくれる契約先が非常に限られた。
「中東の一般の人には『アジア人にベリーダンスが踊れるわけない』という思い込みがすごく激しいんです。もちろんエージェンシーから契約先に送る資料の中に、私の踊りのビデオもあります。それを見て『踊りは良い』というものの、パスポートを見ると、『日本人?ダメだ。ありえない』となり、契約までたどりつけない。こんなくやしい経験を何度もしました」
最初にオファーがあったのが、レバノンの首都ベイルートから北東に50キロほど行った場所にあるインターコンチネンタル・ホテル(InterContinental Mzaar Lebanon Mountain Resort & Spa)だ。ここのレストランやバーラウンジ、日曜日の日中に行われるブランチの会場で踊った。お客は主に地元のレバノン人だった。
「彼らは一緒に踊り、歌い、場を盛り上げてくれます。ノリが良く、ラテン気質な人たちです。レバノン人は、遊びに行ったらとことん楽しもうという気構えがある人たち。長いこと内戦があっていつ死ぬかわからないみたいな状況の中で生きている。だから今生きているこの時この瞬間を心から楽しもうという気持ちがあると思います。
ある日、エージェントが入っているビルにいたら、近くで「ドーン」という大きな音がしました。「爆発か?」と窓から外を見ると、隣のビルの10階付近の部屋から花火を打ち上げている人が。周りに他のビルがないから良いようなものですけど、花火って、ふつう地面に置いて上にあげるものですよね? 遊んでいたんだと思いますが、レバノン人って動じないというか、時々どこから来るのかと思うような発想を持っています」
とASYAさんは楽しそうに笑う。
レバノンの次に向かったのは、アルジェリアだった。首都アルジェのビーチリゾートにあるホテル「シェラトン・クラブ・デ・パン・リゾート(Sheraton Club des Pins Resort)」との契約だ。
アルジェリアではイスラム過激派と政府の衝突によって1991年から約10年間内戦状態が続き、約10万人の死者を出した。ASYAさんが渡航した2008年当時も、まだ一部の地域でテロ事件が発生するなど安全とは言えない状況だった。
現地に行くことに不安はなかったのだろうか?
「オファーがあれば、喜んでどこにでも行こうと思っていました。私には選択肢がとても少ないからです」
現地ではホテル住まいだった。一人でホテルから外出することは勧められず、ほとんどの時間をホテルの中だけで過ごした。まるで『リゾートという名の牢獄』だった。外出できたとしても、映画館などの娯楽はほとんどない。長く内戦があったため、外に出かけて楽しむ習慣がないからだ。ほとんどのダンサーは、気晴らしのためにDVDを何枚も持って行く。3ヶ月の契約を終えたらここを後にし、契約延長はめったにない。
「でも私は契約を延長させて、できるかぎり長くいたいと思っていました。ここで実績をつくらないと、他からのオファーがない。そういうギリギリの状態だったからです」
結果的に、契約は3回延長され、14ヶ月間アルジェリアにいることになった。(2008年2月~2009年3月後半)
決め手になったのは、周囲のスタッフに好かれたことだ。
「ベリーダンサーは、地元の人によく思われていないことが多いんです。それまで友だちとして接していた人に『私はベリーダンサーだ』と言ったとたん、『へー』と上から下までジロジロ見られ、態度が変わる。そういうことが何度もありました。国を問わず、です。もちろん皆が皆そういうわけではありませんが。それにベリーダンサーは一日の労働時間は他の従業員に比べて短いのに、給料は格段に多い。『どうして、あんなことしかしてないのに』って思われがちです。その上あいさつもしないとなったら、イヤなヤツだ、となる。『だったら、その認識をくつがえそう』と思いました」
スタッフに積極的にあいさつし、友達になろうとした。当時はアラビア語のアルジェリア方言も全く話せなかった。『元気?』とレバノン方言で言っても通じない。アルジェリア方言とレバノン方言は全く違うからだ。少しずつあいさつの言葉を習ったり、アルジェリアの独立記念日に『おめでとう』と声をかけた。アルジェリア人にとって、フランスから独立したことは、とても誇りに思うことであり、言われたら嬉しい。
「その国の人の立場に立って物を言ってみる、という気遣いは欠かしませんでした。でもそれは、私にとって努力でもなんでもなく、ごく普通のことです。小さい頃から海外で暮らすことが多かったので、異文化に抵抗がなく、言葉や食べ物など現地の文化を知りたいという気持ちが強かったからです」
日本人ダンサーとして中東で踊る苦労
アルジェリアでの評判が、UAEのアブダビとドバイでの仕事につながった。五つ星レバノンレストラン 「アルマワル(Al Mawal Lebanese Restaurant)」 との契約だ。これはアブダビに1店、ドバイに2店あり、「アブダビでレバノン料理といえば Al Mawal」と言われるほどの老舗だ。アブダビ、ドバイ各店で、それぞれ40日間ほどの契約だった。
「ドバイの人は、『ドバイには世界一高いタワーがある、世界一の町、自分達は世界一だ』という考えの人が多い。そういう場で踊るダンサーが何ヶ月も同じだと面白くない。いつも新しいダンサーを見たいと思うからでしょう」
ドバイもアブダビも首長が治める首長国だが、ドバイは、アブダビのように豊富な石油の埋蔵量があるわけではない。そのため首長が、石油が枯渇するであろう国の将来を見越して、経済の多角化に努めてきた。1980年代から港湾を整備し、中東一広大な自由貿易区を設け、外資の誘致などを積極的に行った。もともと観光資源に乏しかったが、外国人観光客を惹きつけるため、世界一のタワーを造ったりした。ベリーダンスなどの見世物も世界一レベルを求められる空気がある。そして実際に、ドバイの人のダンサーを見る目は、他国以上に厳しかった。
「私はドバイで完全に打ちのめされました。踊りも大事ですが、それ以上に容姿がとても重要視されるんです。胸がとても大きくなければいけないとか」
現地で多いのは、ブラジル人やアルゼンチン人など南米のダンサーだ。彼女たちは天性の踊りの上手さやリズム感を持ち、スタイルも良い。また南米にはレバノンやシリアなど中東からのアラブ系移民が多く、その血筋のダンサーであるということも関係し、比較的仕事につながりやすい。もちろんすべてのダンサーがアラブ系というわけではないが、そういうダンサーを沢山輩出している南米のダンサーだというと、雇う方も雇いやすいといった事情もある。
「オーナーが、『なぜ日本人なんか雇ってるんだ?』とお客から言われたこともありました。『自分たちが見るのはベストなものでなければならない』と思っている人たちですから、『どうして、アジア人ダンサーの踊りを見なきゃならないんだ?』という気持ちがあるのでしょう」
契約は無事完了したが、ドバイで続けていくことの厳しさを感じていた。
「踊りが上手なだけではダメで、アラブ人が求める容貌やつながりがないと成功は難しい。その意味では、私を雇ってくれたマネージャーは、「かけ」があったと思いますし、今でもとても感謝しています。ドバイで踊ることは、すべての人が経験できることではありませんから、とても誇りに思っています」
ドバイでの契約終了後、同じくアラビア半島にあるUAEの隣国オマーンのホテルからオファーがあった。しかし出発直前に体調を崩し何カ月も床に臥せることになり、仕事を断念せざるを得なくなった。すでに、メンタル的にも体力的にも疲れが限界点に達していた。それは主にアジア人という特殊な立場からくる体験に起因していた。
「アジア人ダンサーとして体験するであろうことの情報や知識があれば、また違っていたと思います。でも私はいつも「新種」でした。すべて自分の肌で感じ、初めてわかることがほとんど。特にドバイでは風が冷たく感じました。派遣先に行く前、もちろん事前に他のダンサーから情報はもらいます。『あそこでは、こういう踊りがウケる』、『どこそこのホテルのこの人には注意した方が良い』などです。でもアジア人ダンサーとその他の国籍のダンサーでは、現地の人の反応など体験することが、まったく違ったりもします」
派遣先での契約は、ほとんどが数ヶ月。同じ所に長くいられない。そのため現地で友人を作りにくい。悩みを打ち明けたくても相手がいない。よほど精神的にタフでなければ、やっていけないという。
加えて日本では当たり前のことが、当たり前にできない現実があった。たとえば給料の受け取りだ。働いた分の対価をもらうという当然の権利を行使することが、向こうでは「戦い」となる。
「給料の支払いは現金ですが、指定の給料日に会計に受け取りに行っても、『今日はお金がない』と言われるんです。次の日に行くと、また『ない』。担当者がいないこともある。明後日行くと、『ごめん、今日もない』。次の日も………。給料日は決まっていて、当然お金を用意しておくべきなのに、です」
どの国でも同様だった。レバノンでは、自分一人ではらちが明かないと、エージェントの男性に付き添ってもらったことがある。すると「今日はお金がない」と言った人物が、すぐにお金を持って来た。お金をあげたくないのか、面倒くさいのか、理由はわからない。
「他のダンサーからも同じような話を聞くので、国籍は関係ないと思います。女性一人、しかもダンサーという職業ゆえか、色々な場面で理不尽な扱いを受けます。戦い続けて、ようやくお金が手に入る状況。踊る以外のことで神経がすり減ってしまう。踊ることなんて、一番簡単です。今にして思えば、この体験のおかげで、大変なことも苦しいこともすべて笑い話にして楽しんでしまうという気質が身につきました」
ASYAさんは、さわやかな笑顔で語った。
シリア難民とベリーダンス
現在は日本でダンサーとして複数の場でショーを行い、レッスンも受け持っている。レバノンのエージェンシ―には現在も所属中だ。
2014年12月、ASYAさんはシリア難民を支援するためのチャリティーショーを主催した。
きっかけは、前年夏レバノンでエージェント主催のオーディションに参加した際、シリア難民の親子に出会ったことだった。
エージェントのオフィス近くの道端で、10歳くらいの男の子が物欲しそうにASYAさんを見ていた。その横にはおそらく実年齢より老いて見える母親がいた。それまでにシリア難民に関するシンポジウムに何度か参加し、レバノンでのシリア人難民の生活ぶりを知っていたASYAさんは、すぐに彼らがシリア難民とわかった。所在無げな希望もなさそうなその親子の姿にいたたまれなくなり、お財布にあった10ドル札を母親に手渡した。
「それが大した助けにならないことは分かっていました。でも、どうしてもお金を渡したかったんです。少しでも足しにして欲しくて」
その母親は、ASYAさんの手を取って手の甲にキスをし、手の甲を自分の額に当てた。それは最上の感謝の印だった。見ていて切なさを感じた。その後も、その親子のことをたびたび思い出した。
ショーで集められた利益を、あるシリア難民支援団体に寄付することになっていた。しかし直前に思わぬハプニングが起こった。ベリーダンスを元に集めたお金をシリア難民に支援することに対して、支援団体に抗議の声が多数寄せられたのだ。主な内容は「ベリーダンスで集めたお金はハラーム(宗教的に許されないこと)だ」などといったものだった。
ハラームとは、イスラム上で「禁止される行為」のことだ。ベリーダンサーが人前で肌を露出して踊り、またイスラムで禁止されているアルコールを出す酒場で踊るという理由からだ。
このため、寄付先は急きょ、全く別の団体に切り替えられた。
ベリーダンサーという職業が、宗教上の理由から中東の人々にリスペクトされないものだということを、日本に暮らす今も忘れたわけではない。しかしシリア国外で大変な状況で暮らしている難民の人々に対して何かできないかと思った時、自分が愛して止まないベリーダンスを通してのチャリティーを思い立ったのは、自然で当然な成り行きだった。ダンスを愛するシリアの人たちもたくさんいると知ってのことだった。
「本来望んだ形でのショーができなかったのは残念でしたが、チャリティーを開催し寄付をするということは、受け取り側の気持も考えた上で行わないといけないという基本的なところに改めて気付かされました。でもこの経験があったことで、それ以上に他の方たちとのつながりもできたし、思いもよらないことを学ぶきっかけにもなりました。人生に無駄なことなんて、一つもないと思います」
これからの目標は、生徒さんを育て、そして自分が持っている知識をより多くの人とシェアすることだ。他のダンサーとのつながりも大切にしたいという。
「今後も海外からオファーがあれば、期間が許す限り、踊りに行きたいと思っています。エージェントの契約だけでなく、海外でベリーダンスを披露する機会にもつなげていきたい」
人間としてもダンサーとしても、今後もずっと学びながら成長していきたいと語る。それは、これまで数々の困難を乗り越えてきた彼女なら、容易に思い描ける未来だ。