働いている人は働かない人より偉いのか?
エジプトやモロッコなどアラブの国へ行くと、昼間からカフェでまったりしている男性がいます。「この人たち、いったい何やってるんだろ?」「働かなくて、大丈夫なのか?」。以前はよくそう思ったものです。
日本の目には「大の大人が真っ昼間からカフェに入り浸っていいのか?」と思いがちですが、向こうではそういう雰囲気はありません。
「働くのが偉い」は普遍の価値観ではない
「働かざるもの食うべからず」という言葉が日本にはあります。「稼ぐ者が偉い」といった風潮も。
しかし「働いている人が偉い」という価値観は、決して普遍の価値観ではありません。人類が登場してから何万年かの長い歴史の中で、ほんのここ2〜300年間のこと。
太古の昔から人は1日に2~3時間だけ動物を獲るために(しかたなく)働き、あとはぶらぶらしたり昼寝したり遊んだりして暮らしていたそうです。
今は時代が違う?東南アジアなどに行けば、昼間からぶらぶらしている男はたくさんいます。経済的に許されていて他人の迷惑にならなければ、働かないのは悪いことではありません。
ジェントルマンとは、働かなくても生きていける人のことなのです。
労働を始めて不幸になった
「仕事は自己実現の手段」「仕事こそ生きがいだ」という方もいるでしょう。でも本当に心からそう思っているのでしょうか?
『労働を始めたばかりに人間は不幸になったのではないかと私は思う。世間は働くことに生きがいを見出せ、と煽るが、真に受けない方が良い。そうできない人は能力が足りないという言説は単なるフィクション。』(『ナマケモノに意義がある』(池田清彦))
さらに本ではこう言い切っています。「人間の生得的な性質としては、1日2~3時間働いて、あとは怠ける方が自然。」「今のサラリーマンのように7~8時間働いて残業までしているのは狂気の沙汰。」
仕事より大切なもの
イスラム社会では、仕事はそれほど重視されていません。それより家族や礼拝、家族とのくつろぎの方が大事。仕事はあくまで仕事は暮らしていく手段。だから家庭を犠牲にして長時間働く気概のある?人はいません。
「そんなことだから経済発展しないんだ!」と言われそうですが、経済発展したから幸福になれるわけではないのは、今の日本を見れば明らかです。
生きているだけで価値がある
イスラム社会では働いている人より貧しい人の方が威張っていることもあります。信者には貧しい人への喜捨が義務付けられており、それを行うことで天国へ行けるとされています。(参考:イスラムの喜捨ザカートとサダカとは何か?)
つまり物乞いは人々を天国に導く存在。彼らがいなければ、人々は天国へ入るチャンスが1つ減ってしまうからです。
与える方も、義務といっても嫌々やっているわけではありません。それが神の意志に沿った生き方であり、喜びなのです。
「働かなくても、生きているだけで価値がある」と思わせてくれる社会は、とても人間的です。
「社会の役に立つ人間は立派な人間である。存在する理由がある。社会の役に立たない人間は存在するわけがない、という考えかた。あるいは強い人間、有名の人間、豊かな人間だけをもてはやす時代の風潮を見ていますと、私たちは最近の犯罪が社会の弱者に向けられることが多いのに、改めて気づきます。
大阪でもホームレスの老人を道頓堀の川に放り込んで死なせるという事件がありましたが、社会の弱い部分に向けて暴力が振るわれる傾向が、少しずつ大きくなってきているということを深刻に受け止めざるを得ないわけです。
ぼくらは、人間は努力して世のため人のために尽くし、そして名を上げ、という明治以来の出世主義そのものをストレートではないにしろ受け止め、何かやるということを大切に思って育ってきた世代です。
しかし、今あらためて考えるとき、何もやらなくてもよい、失敗した人生であってもよい、それはそれで、人間として生まれてきて、そして人間として死んでいく。その事において、まず存在に価値があるのだ、と思うことがある。」
(『大河の一滴』)
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