生活宗教と聖俗不分 *<イスラムはどんな宗教?>
イスラムの最大の特徴は、信仰だけではなく生活上のルールも定めているということです。何を食べるべきか、着るべきか、そして日常生活のマナーやエチケットまで。
つまり生活まるごと宗教。日本人がイメージする「宗教」とは全く別のものと言えます。
そして信者は日々、自分の行動が宗教の教えにかなうかどうかを気にしながら暮らしている。「一瞬一瞬をイスラムとともに生きている」と言えます。
生活すべてが宗教
イスラムの教えには人間生活のすべてが含まれます。宗教的な事柄、日常生活のルール、政治、法律、経済に関するなど。
食べていいもの・悪いもの、服装のルール、契約の締結、商売取引、結婚、相続、扶養、殺人、窃盗、姦通、偽証に関することなども宗教の領域です。
道徳的なものも含まれます。親を大切にしなさい、人を殺すな、盗みを働くな、商売では計量をごまかすなとか。挨拶は丁寧にしろ‥。
お金を使う際のマナーなども。コーランには「金を使うにも、浪費してはいけないが、かといってけちけちするでもなく、その中間をいく」と書かれています。イスラムは中庸を重んじる宗教だからです。
あいさつの仕方、やってきた客をあたたかくもてなすこともそうです。
宗教の領域に入らない生活の側面は1つもありません。
そしてこうした生活全般にわたる「神の命令」を守れば天国へ行ける。
精神的な救いや来世での救済だけを説くのではなく、「現世で人々がよりよく生きることを求める宗教」なのです。
性と俗を分けない
生活まるごと宗教ですから、イスラムは聖と俗との区別をつけません。
私たちは葬式や法事などはお坊さんにやってもらい、普通の日常は自分でやります。イスラムには、これらのことが全てが含まれます。
生活すべてにおいて神の意志を実現していくことが、信者の宗教生活。だからイスラムでは修道院制度を認めていません。世俗を棄て、人里離れて長期間に行う修行は、信徒として社会的責任の放棄であり、正しい信仰といえないのです。
そういう意味では信者一人一人が聖なる存在のようなもの。イスラムには牧師のような宗教の専門家は存在しません。
信じるだけでなく行動も大事
イスラムは「現世で人々がよりよく生きることを求める宗教」なので、信じるだけでは不十分。行動が伴う必要があります。
宗教とは、何かを信じることで精神的な救いや安らぎを得るものです。その点はイスラムも同じです。
イスラムの信仰の中核は信じること。創造主である唯一神アッラーを信じ、来世での永遠の命を信じることです。
しかしその上で、定められた義務を実践しなければ十分とは言えません。その義務の代表が六信五行です。
生活のルールを定める
「行動がともなう必要がある」と書きましたが、その信者がとるべき行動が「シャリーア(イスラム法)」にまとめられています。
シャリーアは、生活の全てにわたる明確な規範です。
この意味で、イスラムは「宗教」ではなく、「法律」のようなものと言えます。
仏教やキリスト教には現実を律する法がありません。宗教と法は別。この点がイスラムとの大きな違いです。
この「シャリーア(イスラム法)」の大事なポイントは、正しいか・正しくないかは神が決めるということです。
その神の意志はコーランやハディースに書かれていて、それをもとにシャリーアの法体系が導き出されました。
ハディースにはムハンマドがどのように行動したのか、かなり細かなことまで記されています。
それに従うことが正しい信仰を実践するということ。そして正しい行いをすれば天国に行けることになっています。
ムスリムは「イスラムに照らして正しいか」を気にする
正しい行いをすれば天国に行ける。だからムスリムは自分の行動がイスラムに照らして正しいか正しくないか、いつも気にしています。
私たちは人の目だったり道徳や法律を気にしますが、ムスリムたちが気にするのは「神の目」です。
というと大変窮屈そうに思えますが、正しいか・正しくないかの判断を自分で下す必要がなく、神にゆだねればいいから楽だとも言えます。
そして神の意志の通りに行動していれば間違っていない、という安心感があります。
宗教のルールに縛られている?
私たちからみれば、シャリーアに生き方のルールが示されているのは、「縛られている」と感じます。
しかし私たちも法律や組織、道徳、世間の目といったもので縛られています。
ムスリムが縛られているのは、「神の目」だけです。
どちらが楽で快適なのでしょうか?
シャリーアに従っていれば間違いはなく、神が喜んでくれる。そして天国へ行ける。そういった安心感があります。
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