お金は汚いもの?*イスラムの喜捨と金銭観
「会社の近くに宗教団体の本部があって、すごい豪華な建物なんだよ。「お金は汚いもの」って信者に教えるんだってさ。だからみんなどんどん金を本部に差し出すんだって。イスラムではどうなの?」
知人にこう聞かれました。最近日本では宗教のために多額の寄付をして家庭生活が破滅してしまうといったケースもありました。イスラムでは信者に多額の寄付を求めるのでしょうか?
喜捨の受け取りは貧しい人
イスラムも他の宗教同様、個人の財産を贈与する慈善行為の形態があります。(→ザカートとサダカ|喜捨)ただこれが他の宗教と違うのは、徹底的に制度化されている点です。
①すべての信者の義務(これを「ザカート」と言い、余裕がある人だけの義務)
②もらう相手は貧者や困窮者
③金額が決まっている
①ザカートは一定レベル以上の生活水準にある人の全てに課された義務です。1千万円の収入があったとしても、5人子供がいて生活するのがやっとの人に義務はありません。逆に500万円の収入でも生活に余裕があれば払う義務があります。
②お金の受け取り手は困窮者、貧困者、旅人などで、これはコーランの複数箇所に記されています。
③金額は一年間手元にあった資産の2.5%。収入ではありません。上記のとおり、たとえ収入が多くても、生活に余裕がなければ払う義務はありません。
これが社会福祉制度として機能している。これらの点が他の宗教と違う点です。
お金は汚いもの?
ではイスラムでは、お金は汚いものと教えているのでしょうか?
そのようなことはなく、イスラムでは人々の金銭欲を認め、商売で儲けることを奨励しています。
「礼拝が終了したら、方々に散って、今度は大いにアッラーの恵みを求める(商売に打ち込むこと)がよい。<途中略>そうすれば必ず商売繁昌しよう」(62:10)
商売での稼ぎが「恵み」とあるように、金や金を儲けることは良いこととされている。ただ、ため込むだけなのが悪なのであり、余裕があったら貧しい人に施して助けよ」ということです。
義務としての喜捨ザカートはアラビア語で「清浄にする」という意味で、施すことで自分の身を清めるという意味があります。しかしこれは「お金が汚いものだから、手放して自身を清める」ではない。
「財産はそもそも神にいただいたもので、その中にはあらかじめ貧しい人の権利が含まれている。それを返す義務があり、返して初めて財産が浄化される」という意味です。
施し過ぎもいけない
施しが義務とされているのなら、たくさん施せばいいように感じますが、そうではない。施しすぎも良くないとされます。イスラムでは気前がよすぎて自分や家族を路頭に迷わせることは厳しく戒められています。
「あなたがたの授けられたものを施しなさい。だが、自らを破滅に陥れてはならない」(2:195)
お金の使い方も節度あってこそ。イスラムは中庸を重んじる宗教なのです。
施しは自分のためでもある
イスラムおける施しは、何より自分のためです。施しという善行をすることで、最後の審判で天国へ行けるチャンスが増えるからです。
イスラムではでは個人の善行、悪行を一つ一つを記録する天使がいて、最後の審判の日に総決算がなされます。施しをすることで、それだけ天国が近づけることになります。
「あなたがたが施す良いものは、みなあなたがた自身のためである」(2:272)
さらに施しをすることで、他人を助けるという満足感や、周囲からの人徳も得られる。誰でも他人のためにお金を使う、役に立てるのは嬉しいもの。ためこむだけの人より、積極的に行動してお金を使っている人の方がイキイキしています。
身銭をきれば、それだけ周囲の信頼を得ることにもなります。部下と飲みにいって会社の経費で支払う上司より、自分の財布から出す人の方が信頼されるでしょう。
つまり他人のために自分のお金を使うことは、イスラムでは「現世と来世の両方で得する行為」。
イスラムではの施しとは、「お金が汚いから手放そう」という暗い気持ちからのものではなく、現世では「施し上手なスマートな人」と他人に評価され、来世では天国に入れてもらえるという「二重の得」につながる、楽しく希望に満ちた行為なのです。