個人主義と集団主義*<イスラムはどんな宗教?>
イスラムの特長の1つは、個人主義と集団主義がほどよくミックスされた点にあります。
信仰はあくまで個人の責任である一方、連帯感を高める要素も豊富だということです。
「同じイスラム教徒」という連帯感
ムスリム同士は国が違っても「同じイスラム教徒」という連帯感を持っています。これについて、強く印象付けられた出来事があります。
今から20年以上前、スーダンを旅行した時のこと。その道中イエメン人男性、スーダン人女性と知り合い、一時行動をともにしていたことがあります。イエメン人男性は20代。陸路でリビアを目指していました。リビアで仕事を見つけるためです。
彼は旅の道中、スーダン人女性の食事代・お茶代をすべて払っていました。てっきり家族か親戚かと思っていたら、赤の他人でした。旅の途中で知り合っただけだという。なぜそこまで助けるのかと聞くと、「彼女も同じムスリムだから」。
同じ宗教を信じていることで、家族のようなつながりが生まれる。これがイスラムの特徴です。
一体感を強める儀礼:ラマダンや巡礼
日本人なら、たとえば海外で日本人にあった時、「同じ日本人だ」と親しみを感じますが、「同じ仏教徒だ」とはなりません。国が違えば、なおさらです。ムスリムのこの連帯感はどこから来るのか?
まずイスラムには信者同士のつながりを強める儀礼が数多く用意されているという点です。
代表的なのはメッカ巡礼です。毎年決まった時期に、全世界から何百万人ものイスラム教徒が集まって、同じ儀礼を行います。そしてすべての男性は白い布2枚だけを体に巻き、同じ儀礼に参加する。
ラマダン月の断食は家族とのつながりを深める機会です。ふだんは別々に食事する家族も、ラマダン中は早く仕事を終えて、家族と同じテーブルにつきます。近くに住む家族や親戚がしばしば集まって会食します。皆が揃って断食することで、貧者の境遇を思い、思いやりの心を養うことになる。
モスクや町中では、裕福な人が無料で食事を提供する「神の食卓」というテーブルが設けられ、誰でもそこで食事することができます。連日、知らない者同士の会食が行われているようなものです。(*カラチでラマダン:パキスタンの「神の食卓」
そして金曜日の集団礼拝(男性のみ)。金曜日の昼の礼拝は最も大切なものとされ、男性はモスクに集まって合同で礼拝します。
同じルールで生きている
イスラムは日々の生活上のルールを定めています。食べて良い物悪い物、どんな服装をすべきか、結婚や離婚のルール。だからムスリム同士は、同じルールにそって生きている者同士です。
ムスリムならあいさつも共通です。「こんにちは」は、アラビア語の「アッ・サラーム・アレイクム(あなたたちに平安がありますように)」。その返事は「ワ・アライクム・サラーム(そして、あなたたちにも平安がありますように)」。
世界中のムスリムがアラビア語で書かれた同一のコーランを読みます。
礼拝は同じ言葉、同じ動作で、メッカの方向に向かって行います。インドネシア人もパキスタン人もモロッコ人も、唱える言葉は同じアラビア語。だから種族、国籍、言葉が違っても、一緒に礼拝できます。
礼拝の最後に、「アッサラーム・アレイクム・ワ・ラハマットット・ラーヒ(神の平安と恩寵があなたたちにあるように)」という句を2度唱えます。これは全世界のイスラム教徒との連帯を願う言葉です。
信徒間の愛
コーランでは信徒間の愛を説きます。
『なんといっても信者たちはみな兄弟。したがってなんじらは、兄弟たちの仲を融和させねばならぬ。』(49:10)
『諸事にわたり、人々と協議せよ。』(3:159)
ハディースにも他の信徒を思いやる言葉がたくさんあります。
『あなたは信者たちが、一つの身体であるかのようにたがいに親切、愛、同情を寄せあうさまを見るであろう。身体の一部が痛めば、その全体が不眠と熱で反応するのである。』(ブハーリー、ムスリムのハディース)
『アブー・フライラは、アッラーの御使い(預言者ムハンマド)がこう言われたと伝えている。『あなた方は信仰を持つまで天国に入ることはできない。また他人と愛し合うまでは信仰をもちえない。』(ムスリムのハディース)
『お前たちは隣人が飢えている間は、一口も食べ物を口にしてはならない。』(ティルミズィーのハディース)
預言者はハディースの中で、他のムスリムに対する義務を6つあげている。
『あなたが他のムスリムに出会ったら挨拶すること。彼に招待されたらそれに応じること。求められたら助言を与えること。相手がくしゃみをしたら、彼のために神に救いを求めてやること。(アラブ人にとりくしゃみは悪魔に魅せられる予兆で、他人が「神よ、彼を救い給え」と唱えてやる風習があった)。病気になったら見舞ってやること。死んだら葬儀に参加してやること。』(ムスリムのハディース)
信仰は個人の自由
集団的要素が豊富な一方で、信仰はあくまで個人の責任です。他人の信仰に対してとやかく口出しすることはありません
ラマダン月に断食していない人に対して「断食しないとダメじゃないか」などとは絶対に言いません。髪を隠していない女性に対して「スカーフしなきゃ」とはならない。(だから国の法律でスカーフを着用を強制することは、本来宗教違反なのです)コーランには「宗教に強制なし」とあります。
これは最後の審判で天国に行くか地獄に行くか、その最終的な責任を持つのは個人だからです。たとえ家族であっても助け合うことはできないし、他人の無信仰に対して、責任を負わせられることもない。
「誰もが誰の面倒を見てやりようもない日。」((82:9)
神と人間が直接対峙する
イスラムには聖職者階級はなく、あるのは神と普通の人だけ。間に仲介者がいないので、神と人間の関係はとても近いです。(*平等主義・ 聖職者がいない)
「神はあなたの頸動脈より近くにいる」「アッラーは全てお見通し」とコーランにあります。イスラム教徒が隠れて酒を飲んでも、他の人にはわからないが、神はちゃんと見ていている。イスラム教徒が恐れるのは警察ではなく、神なのです。
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このようにイスラムは信者との一体感を感じられる一方、個人の信仰はあくまで本人の個人の問題です。
人は自分の信仰について、他人にとやかく言われたくないという気持ちもあります。この点、イスラムは「他人の信仰に口出ししない」という気楽さがある。同時に信者同士の結びつきを感じられる仕組みも用意されている。
人は時に一人になりたい生き物。でもずっと一人はさみしい。時にはみんなとわいわいやりたい。個人主義と集団主義の融合。これがイスラムが多くの人々に受け入れられてきた理由ではないかと思います。
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