2022-06-09

イスラムは暴力やテロを肯定しているのか?

よくイスラム過激派のテロがニュースになり、イスラム=テロ、暴力と連想されがちです。イスラムは暴力を肯定しているのでしょうか?異教徒なら殺しても良いという教えがあるのでしょうか?

これについて『リベラルなイスラーム』(大川玲子)をもとに紹介します。この本は「イスラームはリベラルだ」と主張するのではなく、様々な学者のリベラルなコーラン解釈を紹介する本です。コーランは神の言葉だけが記されたものであり、その解釈に幅があるのです。

コーランの戦闘に関する章句

たしかにコーランには戦闘をすすめる句があります。

「アッラーの道のために戦え」(2:244)
「アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。」(9:29)
「あなた方はどこであれ多神教とを見つけ次第殺し、また彼らを捕虜にし、」(9:5)

ほとんどの宗教は暴力の要素があるということです。「自分達の教えこそが正しい」と信じているため、反対する者との対立を引き起こす潜在的要素はあります。この意味では、世界のどの宗教も長い歴史の中で一切の暴力と関わらずにきたものはありません。

コーランは平和と人命尊重を説く

一方でコーランは平和や人命尊重を説いています。

「宗教に強制があってはならない」(2:256)
人を一人殺す者は、全人類を殺したのと同じである。また人一人の命を救う者は、全人類の命を救ったのと同じである。」(5:32)

このように一方では戦闘を肯定し、他方で平和や人命尊重を説きます。ただ西洋のメディアは前者しか取り上げないため、「イスラムは暴力的」というイメージが強調されるのです。

では、この二面性をどう理解したらいいのでしょうか?

コーランの時代背景を考慮する

暴力と平和の二面性を理解するには、まずコーランが下された時代状況を考慮する必要があります。当時のアラブ社会は常に戦闘を繰り返し、対立、衝突、闘争の繰り返しでした(『マホメット』(井筒俊彦))

それでも初期のメッカ時代は、武力による戦闘が禁じられており、イスラムを認めない多神教徒たちの迫害に耐えるだけでした。(コーランの啓示は大きく初期のメッカ期と後期のメディナ期に分かれます)

しかしムメディナ期になっても対立がおさまらず、ついに戦いを許可する啓示が下ったとされます。戦う心構えがないと生命も財産も失ってしまうからです。

「アッラーの道のために戦え」(2:244)は有名なバドルの戦いの前に下ったもので、敵はムスリムをその年、壊滅させると宣言していたときであるから、
この啓示によりムスリム一同は覚悟を新たにしたことであろう。実に真理の道のために戦うのは最大の奉仕である。」(『日亜対訳註解聖クルアーン』)

つまり「戦え」はあくまで戦時の話。今の時代に適用されるわけではありません。コーランの「戦え」の句を理解するには、こうした時代背景を考慮する必要があります。

異教徒を殺せという命令も、あくまで戦時に限られます

「「あなた方はどこであれ多神教とを見つけ次第殺し、また彼らを捕虜にし」(9:5)も異教徒への無差別テロを命じているのではなく、あくまで戦闘時の話である。

また戦争には多くの規定があり、子供、女性、老人、病人、聖職者などを殺害しないこと、村落や市街地、宗教施設、自然の木々を破壊しないことなどがある。
また続く9:6にあるように、保護を求める人には安全を保証している。」

(『クルアーンやさしい和訳』)

戦闘は「防衛」のみ許される

またその戦いも「防衛のために」に限定されています。

あなたがた(信者)を攻撃する人たちに対し、アッラーの道において戦いなさい。ただし侵略的であってはいけない。実にアッラーは侵略者を愛さない。
たとえ巡礼のときであっても、彼ら(信者を攻撃する人)に出会えば、どこでも彼らを殺しなさい。そして、彼らがあなた方を追い出したところから、彼らを追い出しなさい。
本当に迫害(イスラムへの敵対行為)は殺害よりも深刻です。だが聖なるモスクの近くでは、彼らが戦ってこない限り、戦ってはならない。もし戦ってきたら殺せ。
これは不信心者への応報である。だが彼らが辞めたなら、実にアッラーは寛容にして慈悲深い。彼らと戦え、迫害がなくなりこの宗教がアッラーのものになるまで。
だがもし彼らが止めたなら、不正をなす者以外には敵意をもってはならない。」(2:190~192)

戦いを仕向ける者にたいし(戦闘)を赦される。それは彼らが悪を行うためである。」(22:39)

このように戦いは「相手が侵略してきた場合」に限定されます。侵略とは西洋による十字軍や植民地主義に基づく侵略、現代の政治経済的目的のための戦争(イラクやアフガニスタン、チェチェンなどの戦争)です。

イスラムは殺人を禁止する

上記のとおり、戦いがゆるされるのは戦時のみ、かつ相手が防衛されてきた時に限られ、基本的にコーランでは「人を一人殺す者は、全人類を殺したのと同じである」(5:32)とあるように殺人が禁止されている。これが大多数のムスリムのコンセンサスです。(『クルアーン』)

イスラムは自爆テロを禁じている

自爆テロもイスラムでは禁止されています。

「自分自身のてで自らを破滅におとしいれてはならない」(2:195)

「汝ら自身を殺してはならない。」(4:29)

ISの恣意的なコーラン解釈

ISは自分達の暴力を肯定する際、コーランを引用しているものの、上記のような制限を考慮していません。

その引用のほとんどは、戦闘が続くメディナ期の章句のもので、「戦うのは防衛のみ」とする箇所には言及していないのです。

つまりその解釈は恣意的で、「殺せ」という部分だけを取り上げ、暴力を肯定しているのです。

ムスリムたちはISの暴力に反対

ムスリムたちはISに対してどう思っているのか?ピューリサーチセンターの調査によれば、ISを好ましくないと考える人が大多数です。

https://www.pewresearch.org/fact-tank/2015/11/17/in-nations-with-significant-muslim-populations-much-disdain-for-isis/

ただISなどの暴力的組織に惹かれ、その活動に参加してしまう人も一定数いるのは事実です。

さいごに

イスラムには「何が正しいか」を決定する大本山制度がなく、コーランには様々な解釈が存在します。しかしどんな解釈もOKというわけではありません。

ISの解釈は「人を一人殺す者は、全人類を殺したのと同じ」というコーランの理念に明らかに反しています。しかしながらISの主張に共鳴してしまう人もいるのは、アラビア語で書かれたコーランを全世界のムスリムたちが正しく理解できるわけではないからです。

さらにコーランは正則アラビア語(古典アラビア語のようなもの)で書かれており、アラビア語を話す国のムスリムでも、理解するのは易しくないのです。(日本人が古事記を読んで理解しようとするのに似ています)

冒頭で「世界のどの宗教も、長い歴史の中では一切の暴力と関わらずにきたものはない」と書きましたが、だからこそ平和の理念をかかげつつも、時には武器を持つ必要性を説かずにはいられませんでした。「戦え」はそのような背景を理解する必要があります。

字数の関係で『リベラルなイスラーム』の内容をかなり簡略化して紹介しました。本書は離婚や同性愛の問題についても詳しく論じています。ご興味あれば、ご一読をおすすめします。

 

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