砂漠生活から私が学んだこと。
遊牧民女性サイーダは、エジプトの砂漠でたった一人で暮らしています。ラクダ7頭を連れて、毎日砂漠を移動しながら。
私は2003年に彼女と出会い、これまで何度も共に生活して取材してきました。「女ノマド、一人砂 漠に生きる」という本も書いています。
私は彼女から人生について大切なことをたくさん学びました。
いつも「死」を意識して生きる
「いつもあと5分後には死んでしまうかもしれないと思って生きている」
私が彼女と暮らして最も影響を受けたのは「死生観」です。いつも「死」を意識することで、より良く生きられるということ。
イスラム教徒である彼女は、一日5回の礼拝を欠かしません。
「祈りのとき、何を考えているの?」と聞いたことがあります。
答えは「死について」でした。「あと5分後には死んでしまうかもしれない。だからいつも死ぬことを考えているよ」
砂漠では、いつも「死」が隣にあります。サソリや毒蛇はそこらじゅうにいるし、飼っているラクダが機嫌を損ねて襲われて殺されてしまうこともある。実際にそうやって死んでしまった遊牧民は少なくありません。
泉に行ったら水がなくて、死んでしまうこともある・・・。彼女が今まで元気に生きていることを奇跡に思います。
でも仮に5分後に亡くなってしまっても、彼女は後悔しないでしょう。日々好きなことをやっているからです。
町に暮らす親戚や家族が「町でいっしょに暮らそうよ」と誘っても断り、好きな砂漠での暮らしに固執する。毎日好きな時間に起きて好きな時間に放牧に出かけ、ぶらぶら砂漠を移動しながら暮らしている。砂漠の暮らしは楽ではありませんが、好きな生き方をしている彼女の心の中は、いつも穏やかです。
私たちは今日と同じ毎日が永遠に続くように思いがちです。でも突然車に惹かれて死んでしまうかもしれないし、心臓発作で亡くなってしまうかもしれない。
サイーダには9人の子どもがいましたが、末息子2人が他界しました。1人は道を歩いていて、後ろから車にぶつけられて。もう一人は砂漠で鉱石採掘の仕事中、ショベルカーに頭を叩かれて。2人とも10代前半でした。
私たちは誰もがなんとなく、あと10年、20年後も生きていると思っています。それは何の根拠もない。明日死んでしまうかもしれない。突然心臓発作で亡くなってしまうかもしれない。
「今すぐにでも」好きなことをすべきなのです。
遠くより「近くの」情報
「ニュースは戦争の話ばかりだから、つまらないし、聞かなくても困らないさ」
砂漠で生きるのに必要なのは、「身近な」情報です。
どこに泉があるか?その水はまだ残りがあるのか?家畜が食べる草は、どの辺りに生えているか?
それらを知らないと、死に直結します。
サイーダはラジオも持っていますが、聞くのは日に1時間くらい。
「ニュースは戦争の話ばかりだから、つまらないし、聞かなくても困らないさ」
「ニュースを聞くより、ラクダが今喉が渇いているか、お腹がすいているか、そっちの方がわたしにとってはよっぽど大事」
「こういうのは砂漠だからだろ? 日本にいたら、日々ニュースをチェックしてないと時代に遅れてしまう」と思われるでしょう。
でもそうでしょうか?
いつも新聞の国際面に目を通したり、ネットサーフィンで世界のニュースをチェックしたりすることに、どれほど意味があるのでしょう?
それによってあなたの人生は楽しくなりますか?
遠い国の戦争やテロとか、そういったものです。
それより、どうやったらお米や野菜がおいしく料理できるか?自分の家の近くにどんな素敵な美味しいレストランがあるのか?そんな情報の方が、人生を楽しむには必要ではないでしょうか。
強いのは知識より「体験」
「砂漠にはカレンダーがないけど、頭の中に帳面があるんだ。そこに今日は何曜日って、書き込んでおく」
サイーダは生まれた時からずっと砂漠に暮らし、学校に行ったこともありません。読み書きもできない。
でも、彼女の口から発する言葉に、しばしば、「はっ」とさせられるのです。
その言葉は、すべて自分の体験から導き出されたものだからです。
自分の身体を使って得た知識は、強く頭と体に刻み込まれます。
本やネットには有益な情報がたくさんありますが、しょせん「二次情報」です。それを見たとき聞いたとき、「なるほど」と思っても、時がたつと忘れてしまいます。自分の身体を使って体験したことではないから。
情報があふれる今だからこそ、自分の行動から導き出された知識や知恵の方が価値があると言えるのです。
人間は自然の一部
遊牧民たちは雨水を飲み、雨水は泉の水より珍重されています。
あるとき、砂漠に少しの雨が降ったというので、その降った場所へ車を走らせました。
私を案内してくれたドライバーの遊牧民は、雨が降った場所につくと、車を降り、その場の砂を掘り起こします。
やがて、中から茶色い雨水が姿を現しました。
すると彼は、その水を手ですくって、おいしそうに飲んでいるのです。
ええ!と私は最初、びっくりしました。水は土がまじり、茶色い色をしている。どう見ても泥水で、「こんなものを飲んで、だいじょうぶだろうか?」
ところがその水を飲んでみると、全くふつうの水道水と変わらない味だったのです。
そのとき、そうだ!と思ったのです。
砂漠に降る雨は、そもそも汚染されていないから汚いわけではないし、砂だってそう。
土が汚い、いったい誰がそんなことを決めたのだろう?
遊牧民達は「砂は神さまが創ったものだから美しい」といい、砂の上でも平気でじかにごろんと横になります。
そもそも自然にあるものが汚いわけはないだろう。きれい、汚い、という価値基準が、この一件で私の中でひっくりかえりました。
人は自然の一部。だから人は、自然の恵みをいただきながら生きていて、恵みをいただかないと生きていけない、
そんなあたりまえのことを、思い出させてくれました。
少食こそ健康の秘訣
「砂漠では食べるものが少ないから、いつも子どもたちはスルッと生まれた」。
砂漠で食べるものといえば、パンと紅茶。他にジャガイモやタマネギといった日持ちする野菜くらいです。栄養不足にならないかと心配になりますが・・・。
彼女には9人の子どもがいますが、すべて砂漠で産みました。「私は少食だから、いつもスルッと生まれて楽だったよ」。「町じゃ、食べものがあふれてるから、町の女は医者に行ってもなかなか生まれなくて困っている」
「昔は農薬を使ってない食べ物を食べてたから、産むときもラクだった。農薬は食べ物を早く大きくする。だから農薬を使った食べ物を食べると、お腹の子も大きくなって難産になるんだ」今の遊牧民の女性は、ほとんどが町の病院へ行って出産します。
「小さく食べる」は、健康にも出産にも良いみたいです。
短所は見方を変えれば長所になる
「ラクダはのろいほうが良い。足の速いラクダは途中にあるおいしい草を見落としてしまうから」
サイーダさんが飼っている7頭のラクダは、性格も色々です。そして足の速いのもいれば、遅いのもいる。
「のろいほうが良いさ。足の速いラクダは途中にあるおいしい草を見落としてしまうから」
自分では短所と思っていることでも、見方を変えれば長所になります。
「引っ込み思案」な性格が気になっても、それは「他人の気持ちがよくわかる」という長所になるかもしれない。「飽きっぽい」ということは、見方を変えれば「いろんなことに興味がある」ということかも。
短い人生、自分の性格を変えようとがんばるより、短所を長所に生かして暮らす方が、ずっと良いでしょう。
物が少なければ、いつでも好きな時に好きな場所へ行ける。
「最近は物があふれて、心が忙しくなった」
彼女の荷物はラクダ1頭につみきれるだけです。調理用具は鍋一つだけ。それで米を炊き、野菜の煮込みをつくり、油をしいて簡単なパスタもつくります。1つだけなら、洗う手間がかかりません。
着物は2着だけです。1つを洗濯したら、他の1着を着る。2着とも母親から譲り受けたもので、愛着があるのだそうです。少々やぶれても、ずっと着ています。
「1人でいるから、毎日同じ服を着ていても、誰にも何も言われない」。服が少ないから「今日は何を着よう?」と悩む必要もありません。
家がないから、掃除する必要もありません。物が増えると、それだけ忙しくなります。それらを手入れしたり、新しいものを買い換えたり、掃除したり・・・・。
今は遊牧民の多くが、携帯、車、家などを持っています。「最近は物があふれて、心が忙しくなった」と彼らは語ります。一度持つと、もっと良い機種が欲しい、もっとランクが上の車が欲しい、家の中で見るテレビがほしい・・どんどん欲がふくらんでいきます。物と心は直結しています。少ない物で満足できる人ほど豊かだと言えます。
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女性一人で砂漠を移動しながら暮らす遊牧民サイーダと暮らしたノンフィクション。