2017-02-14
砂漠という一次情報に富む世界*『チュニジア通信』
七年ほど前から、エジプトの東方砂漠(ナイル川の東側)に通い続けている。そこで暮らす遊牧民の女性を取材するためだ。彼女の名前はサイーダ。砂漠で一人でラクダとともに暮らしている。
彼女の属するホシュマン族は人口はおよそ千人。九七年から雨らしい雨が降らないため、家畜の食糧となる草が育たず、ほとんどの人は砂漠の中の定住地に移り住み、観光客相手の仕事をするようになった。今でも遊牧を続けているのは、彼女を含めて、二、三家族になってしまった。
私は一人の女性の、広大な砂漠を自由に移動して暮らすエネルギーとバイタリティ、砂漠生活を心から楽しんでいる生き生きとした姿に惹かれ、何度も彼女のもとへ足を運んだ。
とはいっても、私は砂漠での生活を心から楽しんでいるわけではない。どちらかといえば、一度砂漠に行けば、早く町に戻りたいと思う方だ。
砂漠では何日も他の人と会わない生活が続く。毎日の暮らしは単調である。朝起きて朝食をとり、放牧に出かけ、暑い時は木の下で休み、日が暮れると寝るーそのくり返しだ。周囲の風景は、ひたすら岩と砂、青い空ばかりである。
暑いときは、ひたすら木陰で昼寝をし、暑さをやりすごす以外にない。そんなとき、日本で生まれ育った私は、無為に時が過ぎていくかのように感じてしまう。そして、ついつい考えてしまう。「こんなことをしていて、いいのだろうか」と。
砂漠と情報
とりわけ砂漠で顕著なのは、情報の不足だ。テレビも新聞もインターネットもない、映画館も本屋も美術館もない。外の情報がほとんど入ってこない日々。今、世界ではどんなことが起こっているのか、日本では、東京では…? 時代の流れから取り残されてしまうのではないだろうか、ふとそんな不安に襲われる。
私たち(少なくとも私は)は、日々進歩することが良いことであるかのように思っている。情報を取り入れることも、その一方法だ。そしてより多くの知識や情報を得ることで、賢くなり、進歩したように思いこむ。
そういった観点から見れば、砂漠の暮らしは対極にあるかのようだ。毎日同じことをくり返し、限られた情報の中で、日々をただ淡々と過ごす。
しかし、この単調で、一見無味乾燥とも見える砂漠で暮らす遊牧民たちから、退屈だという言葉を一度として聞いたことがない。
やがて、幾度か彼女と暮らすうちに、私はふだん何気なく接している「情報」ということについて、あることを考えるようになった。情報には二種類あるのではないかということだ。それは一次情報と二次情報と呼んでもいいかもしれない。
ふだん私たちが情報と呼んでいるものは、テレビやラジオからから流れてくるもの、あるいは人から聞いたり、インターネットなどから得られる情報である。これは自分で直接体験したことではない。よって二次情報といえる。私たちはこの情報を新聞やテレビなどによって一生懸命集めている。そしてそれらを知ることで、とりあえず世の中の流れに遅れをとっていないと安心し、納得する。
一方で、自分が直接体験したことによって得る情報がある。一次情報である。そして、砂漠で暮らす遊牧民の世界では、一次情報は、決して私たちの暮らしと比べて少なくはない。むしろ非常に豊富なのではないかと気づいたのだ。
遊牧民は、砂漠に残された動物の足跡を見て、それがどんな動物で、オスかメスかを知る。雲を見て、どこそこに雨が降りそうだ、または降ったという情報を知る。そういった情報は、遊牧民の間で素早く伝わる。
砂漠に生えている草がどんな薬効があるか、どこに行けば泉があるか、どこにいけば日差しを遮る樹木があるか、こういったことは良く知っている。水が足りないとき、炭や砂でお皿を洗う方法も知っている。
同じ部族の誰それが結婚した、誰が今砂漠のどの辺にいるという情報も、住む場所は離れていても、遊牧民同士の間では非常に良く知られている。
そして遊牧民の生活では、こういった一次情報が豊富であるために、自分たちの生活に直接関係のない二次情報を仕入れる余地がないのではないだろうか。さらには、私たちが生きる上で、二次情報よりも、この一次情報こそが、意味のあるものではないかと私は思うようになった。
そして、この原稿を書きながら、私はようやく、自分の身の回りの世界の情報だけで満ち足りた気持ちで暮らし、生まれて一度も「退屈」という言葉を口にしたことのない遊牧民を、羨ましいと思うようになった。
(『チュニジア通信』)
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