シベルート島メンタワイ族と暮らした1週間6*ジャングルのトイレ事情
シベルート島のメンタワイ族のウマでの滞在も、いよいよ最終日。今回は「ジャングルのトイレ事情」について書いてみたいと思います。
もちろん「どうしているか?」なんて聞けないし、のぞき見するわけにもいきません。しかしチャンスは突然到来したのです。
偉大なる素敵な○のトイレ
今日もリリ、バイ・マジャとジャングルに竹を取りに行く途中、いつものように川を渡りかけときのこと。1人が突然、「ちょっとごめんなさい」と苦笑いしてズボンを下ろし、川の中にしゃがみこんだのです。
一瞬何のことかわからなかったものの、彼女が腰を上げてズボンをひきあげてから、ああそうなのね、と納得。突然用を足したくなったのですね。それに要した時間は、たったの2、3秒。
ああ、こんなに簡単なんだ!と感動すら覚えました。水もトイレットペーパーも必要ない。手でおしりを洗う必要すらない。流れる川の水が、汚れを洗い流してくれるのですから。しかもペーパーでふくより、きれいになるし清潔。川の水は偉大だ!
実はこのウマにはツーリスト用のトイレ小屋もあるのです。最初はそこを使っていたのですが、滞在最後の方では大も小も川でするようになりました。誰もいない、ジャングルの奥地の川辺に行って。鳥のさえずりをききながら。
なんてすがすがしいひととき!ジャングルのトイレは、町のトイレよりずっとずっとすばらしい!
川のそばで暮らすというのは、人間にとってこの上なく有用なことではないかと思います。すべての汚れは川が流してくれる。人の汚れ、使った皿の汚れ‥。
群馬県の南牧村に行ったことがありますが、古くからの集落はすべて川沿いにつくられていました。それだけ川が人間の暮らしにとって必要だったからではないでしょうか。
洗濯は川でしていたのかもしれないし、飲み水を得ていたのかもしれない。
そうでなくても、単純に川の流れを見ているのは心が清々しくなるし、川のせせらぎの音を聞いているのが心地よい。
本来人間は、川のそばで暮らすのが幸せなのではないでしょうか。
もちろん今は「おばあさんは川に洗濯に」の時代ではありません。
でも何かあった時のサバイバルのために、川のそばに住むのは良い選択肢です。
たとえば災害で水道が止まってしまった時など。用を足せる川が近くにあったら、心強い。川の水なら、念入りに沸かせば飲めるかもしれない。海の水や湖の水は、こうはいきません。
「不便」は他との比較から
ジャングルには、もともと人が望むすべてのものがありました。豊かな食の恵みを提供してくれる森、生活に必要な水をとめどなく提供してくれる川‥。
森と川に抱かれて暮らすメンタワイの人たちは、たぶん何百年も何千年も、そうやって満ちたりた気持ちでくらしてきたのでしょう。
タバコも自分たちで作っていたし、砂糖は自分たちが栽培するサトウキビから得ていた。だからお金も必要なかった。
でも外から便利な物が入ってくるようになり、「自分でつくるより、お金を出して買った方が楽」ということになる。タバコも砂糖も手間ひまかけて作るより、お金を出して買った方が早いし、楽。そうなってくると、お金が必要になる。
子どもたちが学校に通うようになった今、さらにお金が足りないと思う。ノートやクツ、カバン‥。
でも以前は足りないものは何もなかった。満ち足りた生活、というような表現は使いたくありませんが、「足りない」などと思ったこともないでしょう。
「不便」とか「足りない」という気持ちは、他との比較から生まれるのではないかと思います。村の人が持っている電気がない、電話がない。ガスがない‥。
他を知らなければ、他と比べることもなく、自分が「足りてない」とは思わないものです。
だからといって、今さらジャングルの奥地で、外の人との接触を絶って、昔のように暮らしたほうが幸せだとは決して思いません。
時代は変わるもの。それはメンタワイの人たちが一番よく知っています。
外の世界に目を向けて、歩調を合わせつつ、自分たちにあるものをもっと慈しむ。それはジャングルであり、流れる清らかな川の水、鳥のさえずり。数え上げたらきりがない。
そしてその恩恵を、このウマで暮らす家族たちは、十分に今も受けていると思います。
ジャングルの暮らしを少しは経験した私は、ジャングルと町、どちらがいいとは思いません。
ずっとジャングルにいると、私は町が恋しくなる。
でもしばらく町にいると、またあのジャングルに戻りたいなと思います。
人間(私)は、なんてわがままな生き物なのでしょう。