シリア人と結婚し、20年以上シリアで発掘活動を続けた日本人考古学研究者がいる。山崎やよい(56)さんだ。山崎さんがシリアに行くきっかけは、1989年に講談社の野間アジア・アフリカ奨学金を得たことだった。
留学先の希望はイラクだった。山崎さんの研究対象である「都市形成期」の遺跡をイラクで調査してみたいと思ったからだ。広島大学の大学院に在籍中、1983年に国士舘大学のイラクでの発掘に3ヶ月参加した経験もある。
しかし当時、イラン・イラク戦争の最中でかなわず、シリアに派遣されることになった。当初、シリアについての知識はほとんどなかったという。
留学受け入れ先は、シリア北部にあるシリア第2の都市アレッポにあるアレッポ博物館だった。博物館に着いた数日後、 テル・アバルの遺跡発掘への誘いを受ける。テル・アバルは、紀元前6千年紀から4千年紀にかけての、「都市」が出現する前夜の時代の遺跡で、アレッポから北東に150キロ程のユーフラテス川左岸にある。トルコ国境からは、約20キロ南だ。
こうして、現地に着いて2週間後には、早くも発掘調査に参加することになった。発掘は93年まで、5年近く続く。
この遺跡の発掘は、山崎さんにとって興奮の連続だった。出土する土器にほどこされた非常に美しい彩文の数々。掘り進むうち、多くの土器焼成窯や工房などが発見され、窯の中には土器や工具が、あたかも昨日まで作業していたかのように残っていた。
遺跡はテル・アバルの村はずれにあった。自分たちで造った日干し煉瓦の家に寝泊まりし、毎朝4時に起きて、道具をかついで遺跡まで歩いて行った。
発掘の労働力は、主に13歳から18歳の村の少年達。大人達は農作業が忙しいためだ。
毎朝8時くらいになると、遺跡で働く少年の母親が朝ご飯を届けてくれた。チーズやヨーグルト、ホブス(種なしパン)、トマトやキュウリなどだ。ホブスは小麦粉を水で練ってのばして布になったような生地を、中華鍋をひっくり返したような鉄板で焼いたもの。
「そうたびたびいただいては、申し訳ない」と発掘隊のチーフが断るものの、相手はきかず、口論になることもしばしばだった。
「5年間“ただ飯”をいただいていたようなものです。彼女の息子さんが2人働いていたけれど、私たちが払う給料よりも、ずっとたくさん食べさせてもらっていましたから」
と山崎さんは語る。
遺跡の発掘には、離婚した夫との間に生まれた、当時3歳になる娘を連れていった。朝早く出るため、仕事しているうちに子どもは眠くなってしまう。すると発掘区の中で日陰になった涼しい場所に行って昼寝を始める。
「そこで日が当たるまで寝ているんです。暑くなってきたら起き出して、労働者が使う猫車に乗って遊んだり、村の子供達に連れられて家に行って遊んだりしてました。その子が他の家に連れて行ったり。そういう感じで発掘中はどこに行ったかわからないけれど、作業が終る頃にはちゃんと帰ってくる。決して一人ではなく、いつも誰か村の子どもと一緒でした」
遺跡では、土の上に落ちたパンも、土をはたいて食べたりしていた。食事中に風が吹いて土ぼこりが舞い、パンが砂だらけになったりする。
「そういう環境で娘は育ったので、おかげでアトピーにもならず、とてもたくましく健康に育ちました」
シリアに来て間もない頃、シリア人の優しさに触れる機会があった。
アレッポ南東約300キロのユーフラテス川沿いにあるデリゾールの町の博物館にある土器を実測しに行った時のことだ。この博物館には、ユーフラテス川沿いの遺跡からの出土品が豊富に所蔵されている。1週間ほどの滞在中に100個以上の土器を実測しなければならなかった。とても時間が足らず、本来2時に帰宅する番人に、残業手当を払って6時まで残ってもらった。
番人は、いつもお茶を持ってきてくれたりと非常に親切にしてくれた。ある日、彼に「家にごはん食べに来て」と誘われた。断ったが「絶対来てもらわなきゃ。あなたはお客さんなんだから」ときかない。
招かれた家は一部屋だけの家だった。子どもさんが四人。そこで、レンズ豆の煮込み、野菜サラダ、ヨーグルトなどの夕食をいただいた。
シリアに限らず、アラブの人のメインの食事は昼食だ。彼は山崎さんのために、本来メインである昼食を、夕食に回してくれたのだった。
彼の給料は当時日本円にして月2000円ほど。
「それで暮らしていけるのかしら?と思いました。そんな状況でも自分を招いてくれる。まして一週間しかいないような外人である私に、家族のように接してくれて。シリア人のもてなしの心というのは、お金持ちに限らず誰もが持っているものなんです」
イスラムでは貧困者や病人、孤児などと並んで旅人を助けなければならないという教えがある。だが、それだけが理由ではないと、山崎さんはいう。
「招くことが彼らにとって喜びなんだと思います。それに異境の人が来てくれるのは楽しい。他のイスラムの国でも冷たい国はありますから。シリア人は、とても温かく親切な人達なんです」
97年、アレッポ博物館の学芸員だったご主人と結婚した。
ご主人が結婚前からよく家族の家へ連れていってくれたため、家族と結婚前から親しくしていた。
3人兄弟が一つの建物に住み、常に家族が訪ね合う。イスラムの休日である金曜日には家族全員が集まるという、シリアの典型的な大家族だった。
結婚前から家族の家に一人で行くようになった。
「買い物した荷物が重くて疲れてしまって、ちょっと休ませてもらうつもりで行ったら、ごはんをごちそうしてくれて、泊まっていきなさいと言われ、泊まらせてもらったり。そんなことはしょっちゅうでした」
シリア人は、突然訪れても、いつでも心から温かく迎えてくれる。
結婚を機にイスラムに改宗した。あくまで結婚が理由の形式的な改宗である。
「主人の両親は敬虔なムスリムでしたが、私にスカーフをしろとか断食しろなどとは強制しませんでした。シリア人は、全般的に敬虔であっても狂信的ではないし、寛容です。形にとらわれない『ゆるさ』があるんです」
改宗してしばらくは、ラマダン月の断食をしていなかった。ご主人も含め断食をしないシリア人はけっこういるという。周囲の人がそれを責めることはない。
「ラマダン中に家族が料理しているところに訪ねていくと『良いところに来たわ、味見してよ』と変な歓迎をされたりもしました」
ラマダン中は、料理の味見もしてはいけないからだ。
そのために、イスラムというのを特段意識せず、楽しく生活できたという。シリアに長くいられたのは、そんなところが大きいのではないかと振り返る。
「変に強要されたら、行き詰まってしまったかもしれない。何も強制されなかったからこそ、イスラムが好きなんです」
イスラムは寛容な宗教のはずである。それを最も良く体現しているのがシリアではないか、と山崎さんは言う。
シリアは何千年もの間、文明の十字路だった。ギリシャやローマ、ペルシャ……色々なものが入っては出、入っては出、してきた、多様なものを許し、寛容でなければやっていけない。その柔軟性がシリアの気質ではないか、と語る。
2010年末、少し長めのつもりで一時帰国した折りに、翌年3月に紛争が勃発してしまった。帰る機会をうかがっているうちに、どんどん状況が悪くなっていった。シリアに帰る時期を逸してしまった。 2012年2月、ご主人は突然の心臓発作で亡くなられた。
今、ご主人が眠る生まれ故郷の村には、誰も住んでいない。村が激しく破壊されてしまったからだ。
テル・アバル遺跡は、1999年頃、主要部分はダム湖に沈んだ。
今回の内戦中、アレッポ博物館の展示遺物は秘密の場所に収納され、動かせない大きなものは、土嚢などで保護している。一昨年の秋に近くで起こった爆破事件により、窓ガラスなどが吹き飛ばされ、砲弾などが館内に着弾した。幸い展示物を収納した後で、大きな難は逃れた。しかし常に危険にさらされている状況だ。アレッポ市内は、政府軍の空爆、重兵器による攻撃を受けた地区は壊滅状態となっている。被害状況は地区によってまちまちだが、地区から地区に移動する際も、スナイパーなどが潜んでいるため、身の危険がある。
「シリアはシリア人がいるから、シリアだ」
と山崎さんは言う。そのシリア国内の状況の悪化から、人々は家を離れざるを得なくなり、今シリア人がいなくなりつつある。
今、シリアの伝統刺繍を広める活動を行っている。プロジェクトの名は「イブラ・ワ・ハイト」。アラビア語で『針と糸』だ。
刺繍はシリア北部地方の農家などで行なわれていた物だ。これまで庶民的であるため、「伝統」というかしこまった言葉でシリア人が表現してこなかったたぐいの物だ。山崎さんの活動は、そういった今までかえりみられることのなかった民俗を掘り起こすという側面も大事にしている。
作り手は、ダマスカスに暮らす母子家庭の母親達、またトルコに避難した元大学生、高校生、主婦など、主たる家計維持者がいない(亡くなった、不明あるいは、一緒に逃れて来たがトルコで職がない)人達である。
これら刺繍を、シリアやアラブ関連のイベント、岡山市のオリエント美術館、山崎さんの都内の友人 が経営するカフェ・バー、また山崎さんの娘が友人と運営するネット・ショップ「スーク・ハラブ」で販売している。長引く紛争で生活の基盤を失いつつある女性たちに収入の道を開き、そしてシリアの刺繍伝統を保全していきたいと願う。